NO.4 「昭和の市町村合併」(平成26年1月27日)
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1枚の写真には、撮影された当時の時代が隅々まで反映されているはずですが、それを読み解いていくのは難しい作業です。今回取り上げるのは、昭和32(1957)年春〜夏頃に旧岩木町向駒越(現在の弘前市)の岩木橋の袂で撮影された写真です。「絶対大弘前市合併」、「岩木村駒越部落」、「合併実現」、「弘前市」、「向駒越町」などの看板文字が読み取れます。合併の文字が見られるように、時代的には「昭和の市町村合併」のころでです。
平成の市町村合併が幕を閉じてから、だいぶ時間がたちました。今でも、そのときの軋轢の痕はあちこちに残っているようです。さかのぼると、昭和の時代にも市町村合併がありました。昭和28(1953)年、町村合併促進法が施行されました。当時の弘前市は極度の赤字財政で、周辺町村は借金も多く税金も高い弘前市との合併には魅力を感じていませんでした。当の弘前市は、隣接する和徳、藤代、大浦、駒越、清水、千年、堀越、豊田の8カ村との合併を考えていました。一方では、弘前市と中津軽郡16村全部との合併―「大弘前市」構想も検討された。更に、弘前市の南に隣接する石川町との合併も浮上してきました。同時に、北に位置する裾野村と新和村は郡を越えた北津軽郡板柳町との合併を考慮しだしました。
一対一の人同士の結婚でも中々まとまらないのに、このように20近い市町村がそれぞれの事情を抱えながら大合併を目指してもすぐにまとまるわけもありませんでした。そして、合併反対の意向が強かった西目屋、駒越、相馬の3村は合併促進協議会から抜けることとなりました。この動きに影響されたのか、隣接する岩木、大浦、駒越の3村が合併に動き出ししました。昭和30(1955)年1月、岩木、大浦、駒越、相馬、西目屋を除く中弘1市11村の合併が県議会で承認され、県知事の処分を待つだけとなりました。この中、突如同年2月に、岩木、大浦、駒越の3村が合併を決定してしまいました。3村の合併をそのまま認めてしまうと、東目屋村が合併後の弘前市の飛び地になってしまうことが明らかとなったのです。
この後、紆余曲折があり、同年2月18日に県議会は弘前市と中弘11カ村の合併を認めました。一方、岩木、大浦、駒越の3村が合併については、「将来村民の意思により弘前市と合併する」という条件付で、同年3月1日付で新岩木村が認められました。岩木川を挟んで弘前市側に残っていた旧駒越村河東地区については、住民の要望により、昭和31(1956)年9月に弘前市へ編入となりました。
以上のような時代的背景を頭に入れて、今回の写真を見直してみると、岩木村の一部(岩木川から東側)が弘前市に編入になった昭和31(1956)年9月以後も、「向駒越町」(現在の県立岩木高校付近)では、隣接する川向こうの弘前市への「大合併」運動が続けられていたと見ることは出来ないでしょうか?川向うの弘前市と一緒になりたいという切なる願いが、アーチ状の大看板を作らせたのではないでしょうか。このことは記録で確かめられたことではなく、あくまでも半世紀前に撮影された写真からの私の推測に過ぎません。後日、地元町史を紐解いて、確かめてみます。なお、この時からほぼ50年後の平成18(2006)年、旧岩木町は相馬村と共に弘前市と合併しました。旧岩木町向駒越地区の人々にとっては、半世紀後の「悲願達成」であり、弘前市東目屋地区は飛び地が解消されることとなりました。そして、平成の合併でも「我が道」を行く西目屋村の将来は、どのように展開していくのでしょうか。佐々木直亮氏が私達に残してくれた1枚の写真は、分厚い歴史書よりも多くのことを指し示してくれたのです。
このように、古写真の解読作業は他人が書いた推理小説を読むよりずっと楽しいことです。なぜなら、自分が推理小説の主人公になれるからです。ご一緒に、古写真解読を楽しんでみませんか。(青森太郎/写真:佐々木直亮氏)
参考文献:「新編 弘前市史」通史編5 弘前市 平成17年11月
NO.3 「三内丸山遺跡と棟方志功」(平成25年4月10日)
まずは上の写真をご覧ください。周りにトウモロコシが高く生い茂っている畑の一角を、何やら関係者から現場の説明を受けている人たちが取り囲んでいます。左側で指差ししているのは、慶応大学の清水潤三さん、右側は医師の成田彦栄さんです。下の写真を見てみると、中心にいたのはなんと、版画家棟方志功・チヤ夫妻でした。左端は、考古学者の小野忠明氏です。志功にゴッホのヒマワリの複製をあげたのは、小野でした。小野が発掘調査に参加した遺跡での偶然の出会いでした。
ところで、いつ、どこで撮影された写真でしょうか?色々当たってみると、棟方夫妻を案内したのは、青森県立図書館に勤務していた三上強二さんであることが分かりました。慶応大学が青森市三内丸山遺跡を初めて発掘調査した時に、案内したとのこと。慶応大学の発掘調査は合計4回行われていて、初回は昭和28(1953)年10月24日から26日までの3日間行われています。この時は、縄文時代前期の住居跡の一部に当たり、多数の復元可能土器などが出土しています。第2次調査は、昭和30(1955)年8月17日から19日までの3日間。第3次調査は、昭和31(1956)年8月9日から12日までの4日間。第4次調査は、昭和33(1958)年8月5日から11日までの7日間です。
仮に三上さんの証言にあるように、志功さんを案内したのが第1次調査の昭和28年10月であれば、写真に写っている人達の服装は、麦わら帽子をかぶったり、半袖の人もいたりと、秋には似つかわしくありません、むしろ真夏を思わせる装いです。棟方志功の昭和28年秋の動きを年譜で追いかけてみると、その時期には棟方は青森に滞在していませんでした。初回調査時に案内したというのは、どうも、三上さんの記憶違いの可能性が高そうです。それでは、残る第2次から第4次調査のいずれに該当するのでしょうか。残念ながら、棟方の年譜等からは、撮影年を特定できる確たる証拠には行き当たりませんでした。
棟方夫妻が見学した住居跡は、平成4(1992)~6(1994)年に県教育委員会によって、野球場建設予定地が発掘調査された際にも見つかり、第365号住居跡と呼ばれています。棟方夫妻は、自分たちが見学した住居跡が後に再発掘され、国の特別史跡指定、更には世界遺産登録に向けての動きまでになろうとは、想像すらしなかったでしょう。
古書店林語堂さんの書庫にひっそりと眠っていた2枚の写真は、三内丸山遺跡初の学術調査を映像で伝える貴重な資料となりました。皆様も、お手持ちのアルバムを開いてみると、「お宝写真」が出てくるかもしれませんよ。(青森太郎/写真提供:林語堂)
NO.2 「昭和30年代のトイレ」(平成25年4月7日)
↑昭和33年8月、青森県南部地方で撮影
今の若い人たちに、「ボットントイレ」と言ってもピンとこないほど、日本では水洗便所が広く普及しています。しかし、かつては排泄物を溜置きする汲み取り便所が一般的でした。
筆者の少年時代はもちろん汲み取り便所で、かすかな記憶にある昭和30年頃は便所が母屋の中にはなく、少し離れた所に独立して建てられていました。便所の悪臭をきらってのことと思われますが、深夜などは怖くて一人では行けたものではありませんでした。その後、便所は母屋の端に付け替えられ、外に出る必要はなくなりましたが、下水道が普及するまでは汲み取り式のままでした。
溜置きされた排泄物は、畑などの肥料にもってこいです。無料だし、便所の汲取代もいらなくなるわけですから、一石二鳥です。高さ1.5mほどの大きな樽に人糞を入れ、母の引くリヤカーで離れた畑まで臭さを我慢しながら運んだことがありました。その肥料を入れて作ったイモが予想外に美味しかったことを今でも思い出します。
当時は今のようなトイレットペーパーもなく、不要となった新聞紙をちぎって使っていました。お尻を拭いた紙は、人糞と混ぜるとよい肥料にはならないので、別置きの箱に入れ、焼却していました。その後、ネズミ色をした徳用の便所紙が普及し、更に、現在のような美しいトイレットペーパーになっていきました。
紙以外にも、県南地方の一部では昭和30年代頃まで、籌木(ちゅうぎ・クソベラ)と言われる地元産の木の棒きれでお尻を拭いていたようです(写真)。遠く古代末頃から続く、「地産地消」の好例といえるかもしれません。(青森太郎/写真:佐々木直亮氏)
NO.1 「青森空襲」(平成25年4月7日)
↑昭和20年9月、中央古川から国道7号にかけて行進する米軍兵士。画面奥に、青森湾が見えている。
現在、青森市内を散策しながら、この街がかつて、アメリカ軍によって空襲を受け、焼き尽くされたという痕跡を探し出すことは難しくなりました。青森空襲があったことを身近にいる若者たちがどのくらい知っているのかをたずねてみたら、ほとんどの人が知りませんでした。学校でも家庭でも、そのことを教えてくれる大人はいなかったようです。「青森空襲があったことを風化させてはいけない」という言葉をよく聞く私にとって、衝撃的な事実でした。
青森市がアメリカ軍の大型爆撃機60余機によって新型焼夷弾を多数投下され、市街地をほぼ壊滅させられたのは、昭和20(1945)年7月28日夜のことでした。前の晩、アメリカ軍機は数日以内の爆撃を予告するビラを多量にまいていきました。しかし、ビラのほとんどは当局によって回収され、市民の知るところとはなりませんでした。そして28日当日、遠く離れた南海の基地から飛び立った爆撃機は、約83,000本もの新型焼夷弾で、市民が明治時代から営々と築き上げてきた美しい街を焼き尽くしました。また、非戦闘員である一般市民をも狙った、この無差別絨毯爆撃によって、1,000人を超える人々の命を奪ったのです。敗戦のわずか2週間前のことでした。
戦争とは人間同士が殺し合うという、他の動物には見られない地球上で最も愚かな行為です。また、戦争の悲惨さは、それを体験した人がいなくなると忘れられていきます。したがって、私たちは愚直に「戦争反対」と繰り返し、繰り返し訴えていくしかないのです。
(青森太郎/写真提供:青森空襲を記録する会)