青森港まつり1955

青森港まつり1955 行事の紹介と写真解説

 阿南 透(江戸川大学教授)

1.はじめに
 このたび、1955(昭和30)年の青森港まつりの様子を丹念に写した写真の数々を見せていただいた。
 青森港まつりとは、1947年から57年までの、青森ねぶた祭を含む行事の名称である。最大の呼び物はねぶた運行であった。つまり、ねぶた祭は港まつりの一部として行われたのであった。1958年に港まつりは「青森ねぶた祭」と改称し、その名は姿を消した。
 港まつりには、ねぶた以外にもさまざまな行事があったようだ。特に1955年は、青森市にとって記念すべき年であったため、行事が盛大に行われた。まず、この年は青森港の「開港50周年」であった。青森港の歴史はもっと長いけれども、関税法における特別輸出港に指定されたのが1906年であることから、これを起点に50周年を祝うという趣旨であった。
 次に、青森市にとっては町村合併の年であった。1月に筒井町、横内村、東岳村、高田村、浜舘村、荒川村を、3月に新城村、奥内村、原別村を編入し,青森市域がぐっと広がったのであった。
 こうした記念の年であったためか、祭りの日程を旧暦から新暦に改めた。港まつりは旧暦7月3〜7日に行われていたが、1953年に新暦8月3〜7日に変更した。しかし1954年には旧暦に戻す。ところが1955年に、再び新暦8月3〜7日に改め、以後はこの日程が続いていく。新暦使用がいわば定着した年であった。
 1955年の港まつりのプログラムは「豪華!けんらん!! 地上最大のショー」と銘打ったそうである。当時とすれば非常に盛大な行事であったのだろう。今回の写真は、その「地上最大のショー」を余すことなく伝えている。さらにこれは、ねぶただけではなかった当時の祭りの様子をリアルに伝える証拠であるとともに、さらには1955年の青森の町並みをも残す貴重な資料である。

2.さまざまな行事と運営組織
 1955年の青森港まつりは、青森市、青森商工会議所、青森観光協会が共催で行った。青森市長・横山実が名誉大会長であり、大会長には青森観光協会長の田沼敬造が就任。副大会長には市会議長、市助役、商工会議所副会頭、市会副議長が連なり、実行委員長は商工会議所副会頭・室津哲三。事務局長は商工会議所専務理事・菊地正という顔触れであった。市を挙げての祭りであったが、事務は商工会議所が取り仕切ったようであった。
 『青森商工会議所報』は、1955年の祭りについて、前年の二倍以上の五十万人の人出があったこと、三沢駐屯の米軍・家族400名、函館商工会議所、一関商工会議所ら県内外からの観光団があったこと、ねぶたは大小あわせて105台という言う空前の規模であったことを述べている。
 さまざまな行事の様子を、写真解説を加えながら紹介することにしよう。

●森山弥七郎翁墓前祭
 8月3日午前10時より、油川町浄満寺で開催。青森市助役下川原定吉、同水産商工課長木幡聖哉、商工会議所会頭田沼敬造、副会頭室津哲三他二十数名が参列し、墓前に焼香した。

●ボート・伝馬船競争
 3日午後1時より中央埠頭駅前海上にて、ボート及び和船の競争が行われた。高校ボート競争は1着青森高校、2着青森商業高校。伝馬船三人乗は1着諏訪丸、2着慶昌丸、3着船員安定所という結果であった。

●町内対抗装飾コンクール
 3日午後1時より、鳴海健治、木幡聖哉、下山善三、佐藤米次郎、藤本正英の審査員により各町内を審査の結果、次のとおり決定した。1等 該当なし。2等 沖舘大福町。佳作 青森駅前町会、上新町町会、中新町町会、下新町町会、東旭町町会、南旭町町会、長島夜店通り会。特別努力賞 青森駅、株式会社青森魚市場。

●ネブタ囃子競演会
 この年から始めた競演会は3日午後6時から柳町特設舞台で開催され、堀内成剛、肴倉弥八、浜田英一、南了益、斎藤豊三郎、村田基之の各審査員の審査の結果次の通り決定した。優勝 浅利組。入賞 米町少年有志、三上工務店、熊地組。

●自衛隊音楽演奏会
 3日午後7時より音楽隊員約20名により青森市役所前広場で演奏会を開催、聴衆約千人で、拍手喝采裡に終了した。

●照明コンクール
 第5回目の照明コンクールは従来通り青森電気文化普及会に一任、午後7時より星名信吉、鳴海健治他の各審査員により参加33店を新調審査の結果、次の通り店内、広告の両部面にわたり入賞者が決定した。
 店内照明 優秀 コロンバン。優良 松木屋百貨店、丸大食堂部、川島デパート、キャバレーゴールド。佳良 キャバレーバッカス、工藤万年堂、小松屋呉服店、武田呉服店、栄作堂本店、四戸美容百貨店。
 広告照明 優秀 菊屋本店。優良 丸大食品部、武田呉服店。佳良 田中ミシンKK、金馬車、川島デパート、ぼくのおもちゃ。

●堤川横断模型飛行機大会
 参加40機で午前9時堤川にて開催。1位大内貞三(古川)、2位鈴木豊(青工高)、3位奈良祐三(青工高)、4位武内則和(青工高)、5位上崎正(松原中)、6位武田康二(古川)、7位間山徹(浦町小)。

●Uコントロール
 30機の参加で午後1時より野脇中学校校庭で実施。(イ)周回 1位小田桐兄弟組(古川)、2位宮川兄弟組(浪打)、3位村田太田組(長島)、4位間山佐藤組(浦町)、5位糸沢村田組(新町)。(ロ)曲芸飛行 1位小田桐健治(古川)、2位村田英弥(長島)。

●芸妓手踊大会
 会期6日まで連日トラック2台を花飾り、浜町きれいどころ全員が分乗、市内を巡演。他に4日午前9時30分、6日午後3時及び午後5時それぞれ特設舞台及び駅前にて特別出演した。
 写真53080124は、芸妓たちの踊りと伴奏の模様を写す。トラックの荷台には「青森芸妓見番組合」と書かれた幕がある。屋根からは「アサヒビール」の横幕を下げている。後に日本食堂や手荷物預所が見えていることから、駅前にトラックを止めて公演中なのであろう。53080150にはトラックに乗せた舞台の全景が写っている。場所はわからない。
53080124.jpg5308012453080150.jpg53080150

●全国チンドン大会
 全国から25名の代表チンドン屋が参加。午前10時善知鳥神社を出発、大町−塩町−堤町−栄町−浪打−反転−栄町−国道西進−柳町−下新町−安方町−大町−善知鳥神社を巡行した。チンドン屋に背負わせた広告主は、ミツワ(米町)、菊屋本店(上新町)、伊藤薬局(上古川)、平山百貨店(長島)、美濃屋(古川美法)、宝屋(国道橋本)、長尾肉店(中新町)、みなみ商店(長島)、〆一商店(安方町)、丸文商店(米町)、盛喜KK(米町)、佐々木石炭店(栄町)、青森市(寺町)、西田商事KK(大町)、国際中央ホテル(古川美法)、吉田金物店(堤町)、タケヤマ洋品店(堤町)。
 このチンドン屋を写した写真は3枚ある。53080005は、クラリネットの「青森県代表」に、「一関市」の三味線が続く。少し離れて「栃木県代表」と、宮の文字で始まる旗が続く。場所は、富士銀行青森支店が写っているので柳町であろうか。53080108は、国道を西進する場面のようであるが、前の三味線が「米町 盛喜」の広告を背負い、後ろに「大船渡市」の横笛が写っている。53080141は、小太鼓などの打楽器を操る東京都代表と、クラリネットを吹く東京台東区代表。ちなみにこの打楽器は現在のチンドン屋とはずいぶん異なるように思える。詳しい方のご教示を頂きたいところである。
53080005.jpg53080005

●新市域選抜芸能大会
 新地域より選抜60名の芸人が参加。民謡、手踊り、歌謡その他各種芸能を競演、午前10時より午後6時まで予定の時間を遙かに延長、熱演を続行、盛況を極めた。

●町内舞踊と歌の大会
 午後7時より委員一同市内一巡、次の協力者に対して奨励賞を贈った。東旭町町会、南柳町町会、上新町町会、塩町商店会、浪打三連会。
 舞踊大会の模様を写した写真が3枚ある。場所はわからないが旧市域と思われる。「町内舞踊と歌の大会」の様子だろうか。

53080105は、仮設ステージを楽屋側から写した。三味線の撥の向こうに男女が立っている。提灯に「〜ラ洋装店」の文字。後ろに額縁店がある。
53080105.jpg53080105
 53080113は仮設だが大型のステージが写っている。紅白幕を張り巡らし、大きな横断幕を掲げているので、本部もしくはそれに類した会場であろうか。舞台で踊る人々がどうにも不揃いなのは、素人の余興だからであろう。
 53080171はステージで踊る女性を後ろから写している。自転車を停めたままの見物人もいるので、村落部に近い場所かもしれないが不詳である。

●商工カーニバル
 『東奥日報』によれば、東奥アドクラブの主催で、8月5日午後に飾り立てた広告カーが30余台、青森市内から浅虫温泉を練り歩いた。審査の結果、水着姿の女性を乗せたキャバレー「ゴールド」が市長賞を獲得したという。以下、東奥日報社長賞=和田寛食料、青森商工会議所会頭賞=一十佐藤商店、青森観光協会会長賞=今勝毛糸店、東奥アドクラブ会長賞=金正堂時計店、モリヤ靴店、佳良=東洋ビスケット、稲田商店、森永商事、東洋チェーン、努力賞=フクシ靴店、オデオン座、ロマンス座という結果であった。
 53080157は水着姿の女性たちが、舟を模したオープンカーに乗っている。これが市長賞を受賞した「ゴールド」ではないだろうか。
53080157.jpg53080157
 53080139は「へるす号」と書かれた旗がついたオートバイにまたがったピエロである。あいにく商工カーニバルの参加団体かどうかは不明である。
53080139.jpg53080139

●仮装コンクール
 当時、ねぶたにはハネトとともにバケトが多く出現した。しかも7日には、バケトを審査する仮装コンクールがあった。審査場は柳町と米町角であったという。53080039には、ハネトたちに隠れて見えにくいが、審査員らしき人々がテーブルの後に座っている。ここが審査場であろうか。
53080039.jpg53080039
 『東奥日報』によれば、33組が参加したコンクールの入賞者は次のとおりであった。
 一等=女相撲(船水そだほか七名、消防第二分団)、おいらん道中(八甲町会)、分福茶釜(齋藤嶺三ほか)。
 二等=消防組(安田きみ子ほか)児島高徳(佐藤たい子)やくざ連中(木立たい子ほか)=以上消防第二分団。牛若と弁慶(木村広ほか)、武蔵坊弁慶(吉村)=以上日通。チャップリン紳士淑女(森村吉蔵、に組消防団)、牛若丸と弁慶(小杉竹子、魚がし)、怪談地獄(川村健吉)、スラバヤ殿下(松橋明)。
 53080081と53080153は、消防第二分団のねぶたの前を進んでいることから、一等になった女相撲であろう。53080111は、に組ねぶたの前を行く「チャップリン紳士淑女」であろう。
53080081.jpg5308008153080153.jpg53080153
 53080017は牛若丸と弁慶のようであるが、同じ仮装が何組も登場しているので、残念ながら団体はわからない。
 53080138は「白井権八 小紫」と書かれている。53080122、53080155も同じグループと思われる。これがおいらん道中であろうか。
 53080023は子どもたちの仮装。53080036は日通の二人。これから仮装にかかるのであろうか。
 53080115は、ハネトの踊りであるが、仮装とおぼしき人々も混じっている。

3.ねぶた
●大型ねぶた
 1955年に出陣した大型ねぶたは21台であった。
 当時の審査は、大型ねぶたを優秀、優良、佳良の3段階にランク付けするというものであった。9台が「優秀」、5台が「優良」、5台が「佳良」の評価を得た。
 写真には「優秀」9台のうち7台が含まれている。53080074と53080095は東北電力の「九紋龍と花和尚」、北川金三郎の作品である。水滸伝に登場する九紋龍史進と、花和尚こと魯智深を造型したものである。この年は一般からのねぶた人気投票を実施し、1位になったのがこのねぶたであった。
53080074.jpg5308007453080095.jpg53080095
 53080079,53080085,53080097は、魚河岸の「曽我五郎と小林朝比奈」で、北川金三郎の作品である。これは曾我物語の歌舞伎の一場面で、当時最も多くねぶたに登場した題材の一つである。なお、53080085と53080097には「優秀」の扇形の額のほか、「七回連続優秀御礼」の額が見えるが、魚河岸は北川金三郎の作品で連続して「優秀」を受賞し続けたことから、団体が独自に付けたものである。人気投票では3位であった。
53080079.jpg5308007953080085.jpg5308008553080097.jpg53080097
 53080111は、仮装の影になって部分的にしか見えないが、に組消防の「お舟頓兵衛矢口の渡しの場」で北川金三郎作。
53080111.jpg53080111

 53080063は日本通運の「牛若丸と弁慶」である。こちらも北川金三郎作。五条大橋の上での両者の対決をねぶたにしたものである。
53080063.jpg53080063
 このように北川金三郎は、多くの優れたねぶたを制作し、のちに初代ねぶた名人の地位を得ている。しかし北川金三郎は1880(明治13)年生まれであるから1955年には75歳である。この時期には息子の北川啓三(1905=明治38年生まれ)との合作も多かったものと思われる。53080066は、面を描く北川啓三を写したものである。当時のねぶたはこのように面を別に作り、最後に取り付けていた。
53080066.jpg53080066
 「牛若丸と弁慶」は、青森木材青年会からも出ている。53080046、53080049、53080094の3枚の写真がある。こちらの制作者は「佐藤」とだけ記録が残っている。前年にデビューした佐藤伝蔵の作であろうか。こちらも「優秀」であった。
 53080062は左官業合同の「源為朝と伊藤兄弟」で、織田竹容作。制作中のようで、あいにく馬しか見る事が出来ないが、織田のねぶたは優れた馬の造形で有名であっただけに、大変貴重な写真である。
 53080068は、浦町消防団(消防第三分団第二班)の「森蘭丸と安田作兵衛」柴田吉五郎作の海上運行である。(以前、昼の運行を写したを安田しよゆき氏の写真を見せて頂いたことがある)。安田作兵衛がねぶたの下から攻め上ろうとする大胆な構図であり、人気投票で2位になった。
 この他に「優秀」の評価を得たのは、熊地組「小鍛治神霊と宗近」と、北片岡青年会「坂田金時と源頼光」であった。
 この他に写っているのは、「優良」の評価を得た消防第二分団「曾我兄弟富士の誉」柴田吉五郎作で、53080069、53080081、53080089の3枚があった。人形2体が横向きににらみ合うという異色の構図で目を引いたのであろうか。
 なお、53080055は青森観光協会の「曽我五郎と御所の五郎丸」柴田吉五郎作である。これは主催者が出したねぶたであるためか、審査の対象外となっていた。
 53080060は、1954年三陸炭鉱の「羽衣」と思われるが、なぜ1954年の写真が入っているのかが不明である。

●子供ねぶた
 1955年は8月3日に子供ねぶた連合運行が行われ、多くのねぶたが参加した。『青森商工会議所報』は85台と報じている。
 子供ねぶたの写真は、53080075と53080091が「桃太郎鬼退治」をテーマにしたものだが団体はわからない。ちなみにこの構図は、1953年に北川金三郎が魚河岸で制作したものと同じである。
 53080065は後ろに小さくねぶたが写っており、「沖舘」と「加藤清正虎退治」の文字が見える。団体名・題名から判断すると1954年の子供ねぶたと思われる。

●ハネトたち
 写真にはハネトのさまざまな姿が写っている。
 53080020では、半袖半ズボン、たすきがけに鉢巻をし、足袋をはいた男の子が、ガガシコを叩くのに夢中である。ガガシコはこの時にはすでに子どもの必需品になっていたようで、右の女の子もガガシコをぶら下げている。53080013でも、子どもたちは首から提げたガガシコを光らせている。いずれも鼻には白い線を引いている。
53080020.jpg53080020
 53080082は、マルハの浴衣を着たハネトが握り飯をほおばっている。この年、大洋漁業は大型ねぶたを出さなかったようであるが、ハネトは町に繰り出したのであろうか。53080039の右端にも同じ浴衣が写っている。
 53080110は、電電公社(現、NTT)の浴衣を着たハネトがねぶた小屋の前で跳ねている。この年は大型ねぶたを出さなかったようだが、会社の浴衣で跳ねたようである。53080031、53080088にも同じ浴衣が写っている。
 さて、この頃は町のハネトが激しく跳ねるのと対照的に、女性ハネトたちの整然とした流し踊りが登場し流行したという。主として郡部のねぶたから始まり普及していったとされている。53080015や53080069は子どもの流し踊りである。53080131は女性の踊り。
 一方で、従来からの激しく跳ねるハネトも写っている。53080128や、53080039は男たちが跳ねている。53080110は、電電公社(現、NTT)の浴衣を着たハネトがねぶた小屋の前で跳ねている。


4.青森の町並み
●ネオン
 新町には道路をまたぐネオンサインの広告アーチが設置された。これは青森ねぶたの高さ制限の原因になった。53080095は夜の様子、53080074は昼の様子。どちらもねぶたは東北電力である。アーチ上には「ニッポンビール」(後のサッポロビール)、「肉長尾」、蝶屋、などの文字が、横には「小松屋」「清酒桃川」などの文字が見える。
53080095.jpg53080095

●青森駅前
 53080049と53080094は木材青年会を写したものだが、後ろには国鉄バスの十和田湖行きの看板が写っている。
53080049.jpg53080049
 53080081は、青森駅前を行く仮装であるが、駅には11時20分を指す時計の下に大きな飾りがある。『東奥日報』によれば、「六間の玄関一杯に奥行二間、高さ二間」というパノラマで、「壇ノ浦合戦・義経八艘飛び」だそうである。
 53080124は、舞台の後にバスと「日本食堂」、手荷物預所が見える。
 53080162は臨時列車の案内らしき掲示が写っている。外国人が写っているのは三沢基地のアメリカ人であろうか。

●新町通
 53080012は青森駅から新町通を望む夕景。ねぶたの到着を待つのであろうか。
53080012.jpg53080012

●その他の町並み
 53080150は靴磨きのいる場所。芸妓手踊大会のトラックが止まるほどの賑やかな場所である。後に「祝港まつり」の文字を貼った太い柱が見える。
 53080038は佐藤酒店の前に下がる提灯を写す。電話2931とある。
 53080164は大町二丁目のバス停前を行くハネト。
 53080159は第三振興街が提灯などの飾りをつけているところである。町内対抗装飾コンクールに参加したかどうかは不明である。

※荻原明氏から提供していただいた古写真を阿南先生に解説していただきました。深謝です!なお、文中の番号のところに写真が入ります。