「太宰治と印刷屋」
太宰治は郷里の金木町を離れ、青森市東部にあった旧制青森中学校に4年間在学している。青森県立青森中学校(現 青森県立青森高校)に入学したのが大正12(1923)年4月、同校を4年生で卒業したのが昭和2(1927)年3月である。入学当初は、親戚筋に当たる青森市寺町(現在の青森市本町)の豊田太左衛門方に寄宿している。豊田家は大正15(1926)年6月28日に東京交通社から発行された「大日本職業別明細図之内 青森県」によれば、下図のように「豊田布団店」(常光寺近く、●の所)と記載されている。一方では「豊田呉服店」と呼ばれることもあり、どちらが正しいのかという疑問も湧く。これについては「青森商工案内」(青森商工会議所 昭和6年)に、呉服、布団の両方を扱っている店との記述があるので、どちらも正しいといえる。多くの人の目に触れる店頭の看板は「豊田布団店」だったので、地図にはそのように記載された可能性が強い。
太宰が3年生になった年の秋(大正14年11月)、自らが中心になって「蜃気楼」と名づけた同人誌を発行する。太宰の「思ひで」には、そのことを次のように記している。
「作家にならう、作家にならう、と私はひそかに願望した。弟もそのとし中學校へはひつて、私とひとつ部屋に寢起してゐたが、私は弟と相談して、初夏のころに五六人の友人たちを集め同人雜誌をつくつた。私の居るうちの筋向ひに大きい印刷所があつたから、そこへ頼んだのである。表紙も石版でうつくしく刷らせた。」
筋向かいの大きな印刷所というのは、同人誌の奥付や上図にあるとおり「青森印刷会社(=青森印刷株式会社)」に間違いなく、そこに同郷人が働いていた気安さもあって頼んだという。多色刷りされた表紙を含め、製本された同人誌が受注元の青森印刷株式会社から、太宰の手元に納本されたものであることは間違いないのだろう。しかし、当時の多色刷りは石版刷りでしか出来なく、技術的にもかなり難しかったようだ。以下で、青森印刷株式会社が多色刷りの表紙を含めて、全て自前で、太宰からの要望通りの同人誌を作れていたのか、見てみたい。
「青森商工案内」(青森商工会議所 大正14(1925)年)によれば、青森印刷株式会社は「活版印刷」が可能な印刷所であり、他方、多色刷りのできる株式会社啓明社は「石版、活版印刷」ときちんと印刷方法を区別して記述してある。活版印刷は活字を原稿通りに並べて文章にするもので、絵や写真などの印刷は不可能である。このことからして、当時の青森印刷株式会社では、「表紙も石版でうつくしく刷らせた」印刷は出来なかったと考えられる。それでは、どこの印刷所で石版刷りはなされたのであろうか。再び「大日本職業別明細図之内 青森県」を見てみよう。受注元の青森印刷株式会社がある寺町からさほど離れていない北側に、「松尾石版所」(現在の青森市本町、地図の■印)が見える。ここは青森市では随一の石版所で、植物画の大家である佐藤蔀作品や画家今純三の「青森県画譜」など数多くの石版の名作を残している(「青森県印刷史」青森県印刷工業組合 昭和57年)。この他に、「永沢石版所」(現在の青森市旭町)、「福士石版所」(現在の青森市古川)の名前を見つけ出すことができる。先ほどの「青森商工案内」にあった「株式会社啓明社」のように、社名に石版を冠していない石版刷りが可能な印刷所も有り得るので、この4箇所以外に石版刷りはあり得ないとは断言できない。しかし、石版所は技術的に難しい印刷に特化して営業しているので、青森印刷株式会社が自社で印刷不可能な石版刷りを松尾・永沢・福士の三石版所のいずれかに依頼した可能性は、かなり高いと考えられる。この中でも、飛び抜けた石版技術を持ち、しかも受注元と距離的に近い松尾石版所が石版刷り部分を担当したと考えるのが自然である。それはまた、画家を志したこともある太宰の美意識に叶うものでもあったろう。県都に所在する旧制青森中学校に通学していたという地理的要因が、県内随一の石版技術を持つ印刷所があったという「幸運」を呼びこむこととなり、同人誌の体裁的完成度を高めたことは、間違いないといえる。
以上、旧制青森中学校時代に太宰治が始めた同人誌の印刷元に関係した事柄の「落穂拾い」をしてみた。数多くの研究書が出版されている太宰治ではあるが、彼が一時期を過ごした青森市で、細かな情報をかき集めてみると、これまで見落とされていた事が少しは見えてきたように感じている。(相馬信吉)