平成27年4月から、東奥日報社の金曜日(毎月第2・4)夕刊に青森まちかど歴史の庵「奏海」の会会員が中心になって、「あおもりなつかし写真帖」の連載を始めました。とりあえず、平成28年3月まで24回の予定です。新聞掲載後、随時、このコーナーではストリートビューなどを使いながら、紙面とは違った観点から、ご紹介していきます。
第9回(2015年7月31日) 「昭和40年代の青森ねぶた 昼運行も大勢の跳人」
青森ねぶた祭が現在のように全日程合同運行となったのは、昭和43年(1968年)からです。コースも国道・橋本〜古川間から新町へというものでした。また、青森県庁前の歩道に有料観覧席が設置されたのもこの年からです。
上の写真は昭和44年(1969)の七日日です。電話局(現NTTビル)を背に西進する、「まるは大洋」の「紅葉狩」(石谷進作)です。当時のねぶたは運行団体の慰安の意味合いが強く、専用の浴衣を与えられた関係者以外は参加しづらいものでした。跳人も囃子方も揃いの浴衣。花笠を被り、笛に合わせて跳ねている様子が良く分かります。
下の写真は昭和45年(1970)の七日日の国道です。金曜日午前中の運行にもかかわらず、大勢の跳人の花笠がゆれています。ねぶたは青森市役所の「項羽の馬投げ」で4代名人・鹿内一生の作品です。当時の最高賞「田村麿賞」に輝いた、師の代表作の一つです。左上の赤屋根の大きな建物は、旧県立中央病院です。昭和56(1981)年に東造道に移転し、跡地は現在“青い森公園”として市民の憩いの場となっています。
いよいよ、祭りが始まります。竹浪比呂央ねぶた研究所では、今年も3台の大型ねぶたを制作しました。私は菱友会ねぶたにカッパの神様を登場させ、JRねぶたは津軽海峡の義経・弁慶です。今年2年目の新人・手塚茂樹はマルハニチロねぶたで三国志の張飛に挑戦しました。武者達もますます、いい面構(つらがまえ)となって出陣の時を待っています。期間中の好天と熱い日が続きますように、お祈りいたします。(ねぶた師・竹浪比呂央)
第8回(2015年7月24日) 「攻撃受ける青函連絡船 乗組員131人が死亡」
青森湾で攻撃を受ける青函連絡船「翔鳳丸」
「青森空襲を記録する会」が活動を始めたのは、空襲から35年経過した昭和55(1980)年のことでした。第1回青森空襲展を昭和56年7月、青森市の「五拾壱番館」で開催するにあたり、在日アメリカ大使館へ、青森空襲の写真が保管されていないかを問い合わせました。開催直前に、「写真5枚が見つかり、ワシントンから三沢米軍基地へ送った」との連絡が入り、三沢米軍基地ゲート前で写真を受け取り、急ぎ展示しました。以来、アメリカの国立公文書館に多くの関係写真が残っていることを知り、空襲写真蒐集活動を始めました。
アメリカから届き展示した写真の一枚が、今回紹介します「青森湾で攻撃を受ける青函連絡船翔鳳丸」です。昭和20(1945)年7月14日、青函連絡船が攻撃を受け全滅しました。青森湾では翔鳳丸、飛鸞丸、第二青函丸、第六青函丸が攻撃を受け、青森市民の目前で131人もの乗組員が死亡しました。この中には当時、14、5歳の函館船員養成所大沼支所の生徒も含まれており、市民の涙を誘いました。
この連絡船全滅に市民は青森空襲が近いことを予感し、次々と郊外に疎開を始めました。これに対して、行政や警察は「期日(7月28日)まで自宅へ戻らないと配給を止める」、「空き家になったところは取り壊す」などの警告を発しました。食糧を絶たれ、住む家が無くなったら困る市民は、泣く泣く疎開地から自宅に戻らざるを得ませんでした。そして、昭和20年7月28日の青森空襲では、1000余名の尊い命が失われました。(青森空襲を記録する会会長・今村 修)
第7回(2015年7月10日) 「49年前のねぶた 歴代3名人の作品」
このカラー絵葉書は昭和41年(1966年)8月7日青森ねぶた祭 最終日、昼の運行七日日(なぬかび)の様子です。この頃は、8月3日から7日までの開催で3日・4日は子供ねぶた、大型ねぶたの合同運行は5日・6日・7日に限られ、しかも3日間とも毎日ねぶたの運行コースが違っていました。
ねぶたは厄払いのネムリ流しの行事に由来しています。願い事を書いた灯ろうを旧暦7月7日のお昼に、川に流して秋の収穫を祈るのがその原点です。青森市内では昔から堤川にねぶたを流していたのだそうで、その名残りと思われます。
午前11時、青森駅前を出発、新町・寺町を東進して堤川へ、そして堤交番前で解散となり、川のほとりで昼食、ひと休みしてゆっくりねぶた小屋へ帰るというものでした。もちろん小屋に戻るまで囃子が響き、跳人がハネ、街全体で行く夏を惜しみました。
青森駅を背にして新町通りを進む先頭のねぶたは、青森市役所の「風雲児信長」(鹿内一生作=四代目ねぶた名人)。安方の小屋を出て、右側(現アラスカ)角で待機中のねぶたは日本通運「不動明王と遠藤盛遠(えんどうもりとお)」(佐藤伝蔵作=三代目ねぶた名人)。奥には青森県庁の「児島備後三郎髙徳(こじまびんごさぶろうたかのり)」(北川啓三作=二代目ねぶた名人)。歴代ねぶた名人三名の作品が偶然連なる半世紀前の貴重な一枚です。
青森駅を出発点とする運行も昭和42年(1967年)で終了。翌43年からは国道・新町を通る全日程合同運行へと変更。合同運行日数の増加は、ねぶたが観光化していく端緒となりました。(ねぶた師・竹浪比呂央)
第6回(2015年6月26日) 「禁じられた避難と防空法 」
青森市新町での東久邇宮稔彦王による防空訓練視察風景
太平洋戦争中の焼夷弾攻撃への消火方法は、バケツリレーで水や砂をかける、竹箒(たけぼうき)で火の粉をたたくなどでした。しかし、アメリカ空軍大型爆撃機B29の空襲には全く役に立たず、逆に犠牲者数を多くしました。昭和20(1945)年7月28日の青森空襲も例外ではなく、青森市の90%が焼失し、1000人以上の市民が犠牲となりました。
なぜこんなに大きな犠牲が出たのでしょう。それには稚拙な消火方法に加えて、市民に郊外への避難を禁じ、居住地での防火を義務付けた「防空法」の存在があげられます。防空法は昭和12(1937)年に制定され、昭和16(1941)年の改正で①都市からの退去禁止②消火義務が追加され、違反者に対する罰則が強化されます。同時に、日本全土の防空を一元指揮する陸軍防空総司令部が設けられ、同年12月に二代目司令官に皇族で陸軍大将の東久邇宮稔彦王(ひがしひさしじみやみのりひこおう)が任命されています。これに伴い、全国規模で防空展や防空訓練が行われ、東久邇宮稔彦王が、昭和17(1942)年6月9日に青森市を訪れ、新町商店街の防空訓練を視察しています。罰則を強化した防空法と防空展の開催、防空訓練の強化、最高責任者による視察と激励は、結果的に市民の避難を禁じ、犠牲者数拡大につながりました。
なお、この写真を含む関連写真多数を、青森市本町2丁目にある「奏海(かなみ)」(電話017-777-0856)で7月1日から9月28日まで開催予定の写真展「禁じられた避難と防空法」(入場無料)で展示します。是非ご来場ください。(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会・今村 修)
第5回(2015年6月12日) 「岩木山の雪形 40体以上住みつく 」
昭和31年、現在の弘前市城西付近の田植え風景(佐々木直亮氏撮影)
昭和55年、弘前市元薬師堂から見た岩木山 イラストは雪形を示す
写真上は昭和31(1956)年5月30日に弘前市郊外で撮影された田植えの風景です。津軽の農村では“猫の手も借りたい”、一年で最も忙しいときです。
背景の岩木山山頂付近にはいくつもの雪形(残雪)が見えます。このうち一番右側にある逆三角形の小さい雪形が「苗モッコ」と呼ばれ、田植えの時期を教えています。「苗モッコ」は初め真っ白ですが、雪消えにしたがって黒い部分が多くなっていきます。これを苗が一つ入った、二つ、三つ入ったといいます。
農家のひとは、この推移を見て熟練者は苗代から苗を取り、若者がそれを運び、女たちが苗を植えるのです。子ども達は“急げ急げ 田植えを急げ、お山のモッコさ苗(ネ)こ入った”と唄って歩いたそうです。(「津軽の民俗」、森山泰太郎、1965)
写真下は昭和55(1980)年5月18日に弘前市郊外で撮影。当時はまだ手植えが主流でしたが、苗づくりの技術が進み、早期の田植えができるようになりました。岩木山には「苗モッコ」など、さまざまな雪形が踊っています。
これはほんの一部で、これまでの調査から40体以上の雪形を確認、岩木山には日本で一番多くの雪形が住みついていることが分かりました。その理由は、津軽平野にそびえる独立峰で周囲280度の稲作地帯から見渡せること、頂上から裾野にのびる尾根、谷間が多様な残雪形を形作っているからです。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会・室谷洋司)
第4回(2015年5月22日) 「八甲田山の雪形 農作業の段取り示す 」
青森市桜川から見た八甲田山、平成13年5月下旬。イラストは雪形名を示す。筆者撮影
昭和31年5月12日、佐々木直亮氏撮影
200年ほど前の春、江戸時代の紀行家・菅江真澄(すがえますみ)は青森の村々を巡っていました。三内で縄形や人の仮面をした古い瓦{三内丸山遺跡}を見たあと、くっきりと山容を見せる八甲田山の残雪模様が、コメ作りの適期を教えるのだと村人から教わり、日記「すみかの山」(寛政8年、1796)に絵図を描いて説明しています。
前岳の斜面に「種まき爺」が現れると種を蒔き、赤倉岳の下に「蟹ハサミ」が出ると田をならし、「牛クビ」が見えるころ田植えするというのです(写真上)。
これは今にいう雪形(ゆきがた)のことで、昔は雪国の山々で毎年、同じところに現れる残雪のかたちを人物や動物の姿などに見立て、出具合、消え方から農作業の段取りを読みとっていたのです。写真下は昔の田起こしの風景で、これは「蟹ハサミ」が出始めると行う過酷な作業でした。
八甲田山には、眺めるところによって異なった雪形が出現します。県東部の七戸地方からは、大岳の斜面に「駒の雪」と呼ばれる白い馬の姿が現れます。県南の旧十和田湖町の方角からは高田大岳に「駒形」(白馬)、小岳に「鳶形」(トンビ)、硫黄岳に「松形」(老松)が現れます。雪形が山名由来にもなり、昔は大岳を「駒カ岳」、小岳を「鳶形岳」、硫黄岳を「松形岳」と呼んでいました。
(青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の会・室谷洋司)
第3回(2015年5月8日) 「弘大医学部発祥の地 校舎活用 何度も転用 」
右側には旧浦町駅、左側の建物は松原中学校(阿部秀正氏撮影)
現在は、全く違った光景となっている。
この写真は昭和38(1963)年12月に青森市松原地区で撮影されました。右手に写る線路は昭和43(1968)年までこの地区を走っていた東北本線で、現在は跡地が遊歩道緑地となっています。左手に見える建物は、青森市立松原中学校(昭和40年閉校)の校舎北側です。
この校舎は昭和12(1937)年に野脇尋常小学校として建設され、昭和19(1944)年に官立青森医学専門学校(弘前大学医学部の前身)の校舎となりました。しかし、青森医学専門学校は青森空襲で附属病院などを失い、昭和22(1947)年に弘前へ移転します。
残された校舎には昭和22年から24年まで市立野脇中学校(現市立南中学校)が置かれ、一時は市立第二中学校(現県立北斗高校)と県立青森高等女学校(現青森高校)も校舎の一部を利用しました。更に、昭和24年から29年までの間は市立野脇小学校(現市立堤小学校)として、昭和29年から40年までの間は松原中学校として使われました。
校舎は松原中学校の閉校によって役目を終え、跡地には昭和44(1969)年に青森市民文化センター(現中央市民センター)が建設されました。その敷地内には平成6(1994)年に建立された「弘前大学医学部発祥之地」の碑があり、かつてこの地に青森医学専門学校があったことを伝えています。
なお、約70枚の貴重な古写真を展示した写真展「青森市戦後復興物語」(入場無料)を、青森市本町2丁目にある、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」(電話017-777-0856)で6月28日まで開催しています。(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会・村上亜弥)
第2回(2015年4月24日) 「戦後復興する青森市 本格的な車社会へ」
写真提供:畠山光吉氏
畠山商店は閉店し、畠山マンションとなっている。
上の写真は昭和20年代末に、青森市栄町の国道4号に面していた店先を撮影したものです。「新学年用品大売り出し」の看板が見えますから、雪が溶けて間もない3月後半頃でしょうか。学生帽やカバンなどを買い求める人々で賑わっています。角巻を着たご婦人も見えます。当時は資材不足などから建物の高さ制限などがあったようで、同じような家並みになっています。この地区は、昭和20(1945)年7月28日の青森大空襲で建物の殆どを焼失しています。太平洋戦争敗戦からわずか10年位で、想像以上に青森市が復興したのが見て取れます。
写真提供:平井潤治氏
下の写真は昭和34年頃に、青森市役所庁舎から海側を撮影したものです。国道4号の海手側には2階建て木造の個人商店がズラリと並んでいます。国道をトラックが往来する中を、歩行者が平然と横断しようとしています。また、道路は舗装されていますが、センターラインなどの区画線が未整備の時代でした。
このように2枚の写真は、青森市の戦後復興が進む一方で、本格的な車社会へと突入していく過渡期の様子がうかがえる貴重な映像資料となっています。
なお、70点余りの貴重な古写真を展示した写真展「青森市戦後復興物語」(入場無料)を、青森市本町2丁目にある、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」(電話017-777-0856)で6月28日まで開催しています。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」の会・相馬信吉)
第1回(2015年4月10日) 「戦前の東奥日報社社屋 洋館風 空襲で焼失」
写真提供:平井克彦氏
社屋は問屋町に移転し、現在は駐車場となっている。
2階建ての軒先から垂れ下がる氷柱群と屋根を覆う厚い雪。洒落た洋風ドアを設えた玄関。開け放たれた玄関前に、急ぎ置かれたと思われる自転車。この写真は昭和十四(1939)年一月九日、東奥日報社に勤務していた平井義雄さんが撮影した青森市新町にあった本社社屋風景で、ご遺族の元で大事に保管されていたものです。撮影前年には国家総動員法が公布され、日本が国をあげて戦争へと突き進む中、東奥日報社は総合雑誌「月刊東奥」創刊を企画しています。
東奥日報社本社は当初、旧青森県庁北側のメーンストリートに建っていましたが、明治四十三(1910)年五月の青森大火で焼失後、弘前の堀江組によって再建された洋館風の洒落た建物でした。堀江組の創業者は名棟梁と言われた堀江佐吉で、弟子たちと共に和洋折衷建築物を青森県内に数多く残しています。
そして、昭和二十(1945)年七月二十八日夜の青森空襲では社屋が焼失しただけでなく、消火に駆け付けた社員六名が殉職した中、新聞の発行が途絶えることはありませんでした。空襲の翌日は、弘前で号外を印刷・発行し、更に秋田魁新報社、新岩手日報社、河北新報社の協力を得て、新聞社としての使命を果たし続けました。このように、洋館風玄関をもった東奥日報社社屋がもし残っていれば、青森市内における貴重な歴史的建造物の一つであったに違いありません。また、青森空襲を乗り越え、70数年ぶりに人目に触れるこの写真も、貴重な「過去への覗き窓」と言えます。
なお、この写真を含む約70枚の貴重な古写真を展示した写真展「青森市戦後復興物語」(入場無料)を、青森市本町2丁目にある、青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」(電話017-777-0856)で六月二十八日まで開催しています。
(青森まちかど歴史の庵「奏海」庵主・今村修)