「米」シリーズ 写真NO.40
「田植」と題された、昭和31年5月30日に弘前市内で撮影されたものである。津軽の秀峰-岩木山を真正面にすえ、農家の女性たちが田植えをしているところである。苗の植え方は人それぞれである。前進で植えていく人、その真逆の人。植えていく先には、苗が事前に放り投げられている。ここの地区では、腰にカゴを結わえつけ、それに苗を入れるという方法は取られていない。田植機が導入される前の、伝統的な田植えの風景である。
さて、今回注目して欲しいのは、遠くに望む岩木山山頂付近の「雪形」(特に、右端付近)である。青森市在住の雪形研究家の室谷洋司さんによると、地元の農家の人々が「苗モッコ」と呼ぶ部分に苗が入っていて、この状態は5月下旬頃にみられるものだそうだ。雪形の研究からも、佐々木直亮先生の撮影日が間違いないことが裏付けられたと言える。稲作技術が進歩した昭和50年代半ばでは、5月中旬に田植えができていたそうで、岩木山の雪形「苗モッコ」には、苗が入っていない。およそ20年で、田植えの時期は2週間ほど早く植えられるようになったのである。雪形の詳しいことは、下記を参照のこと。
現在の津軽地方での農家は、殆どが兼業農家であろう。農業だけでは生活できないのだ。1枚の写真に残された雪形だけをとってみても、それでしか生活の糧を得ることが出来なかった昔の農民は、全知全能を傾け、農業暦を自ら創り上げていったのだと思う。日々の僅かな自然の変化、それをキッチリ記憶し、その推移がどのようなことと関係するのか、自分の頭で考えていたのだろう。今の時代は、農協から農業暦が自動的に届き、農家はそれに従って時期を得た農作業をこなしていく。これも時代と言ってしまえばそれまでだが、私たちが失ったものはあまりにも大きいような気がする。
室谷洋司氏「八甲田山の雪形」
佐々木直亮 ささきなおすけ sasaki naosuke
今から30年前、弘前に住むようになって、東京生れの私にとっては何もかもがめずらしく、撮り続けた写真集が、衛生学教室のアルバムになった。
昭和59年7月に、第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されることになった記念に、その中の何枚かを“人々と生活と”というテーマで選んでみた。
ここに写された生活はもうほとんどみられない。青森県の津軽・南部の、又一部秋田県での人々の生活の記録は、それなりに意味があるものだと思う。人々はそれぞれの土地に生活し、その様子は無限にあり、そのほんの一部をのぞきみたにすぎないものだと思う。
しかし衛生学者としての私は、そのシイーンに何かを意識しシャッターをおしたので、一枚一枚にそれなりの意味があり、記憶に残るものがある。
東北地方には“あだる,といわれていた病気があった。その謎ときに30年を過してきたのだが、その研究にとりかかった当時は、その原因として“労働”が考えられていた。
東北地方の人々の生活、とくに労働については全く知らなかった私は、まず労働を知らなければならないと思った。そのために週に一回、自転車にのって学校の近くの田畑にかよって、一年を通して農家の人々の労働をみにゆき、写真を撮り続けていった。
「人々と生活と」巻頭言より