「住」シリーズ 写真NO.86
「毛皮を売る店」と題され、昭和31年1月に弘前市土手町にある「角はデパート」前で撮影された写真である。尻尾はもちろん、顔らしき部分までついているようである。角巻を羽織った女性が品定めをしている。
私も小学生だった昭和30年代、弘前駅前周辺で露天で犬皮を売っているのを見た記憶があるが、これも同じかも知れない。また、祖父も冬になると大きな毛皮を着ていた。当時は、当たり前に防寒着として動物の毛皮を用いていたのだろう。
青森市古川市場で長年お店をやっている80歳代のおばあさんに、青森市内で昭和30年代に犬皮が売られていたか聞いたところ、青森市内では売られてなく、近くは浪岡町、遠くは弘前市まで買いに行ったという。昭和40年代になると、弘前市内で犬の毛皮を売っている光景を見ることは無かったように思う。
過去をさかのぼってみると、明治の初め、箱館戦争への出兵を命ぜられた弘前藩は、北海道遠征に備える為、急遽、藩内の犬狩りをして毛皮を調達したといわれている。また、津軽三味線には、犬皮が用いられているという。犬皮と津軽は、深い関係にあるようだ。
「住」シリーズ 写真NO.156
「雪切り」と題され、昭和30年3月11日に弘前市内で撮影されたものである。次のようなコメントが添えられている。「3月になると“雪切り“がはじまった。市内は一日交通止になり、岩のように凍った雪をツルハシで掘り起こし、半年ぶりにアスファルトが顔を出した。失業対策になるというので、ツルハシで掘り起こす人にとってはこの雪はお金に見えるということだった。」佐々木先生のコメントから、雪切りの時は市内が1日中、交通がシャッタアウトされていたのがわかる。ただし、写真集のコメントは、発行年の昭和59年頃に書かれたと考えられるので、アスファルトが舗装に普通に使われたのは、いつ頃からなのか、調べてみる必要がある。案内人に記憶では、コンクリート舗装が多かったような気がするのだが。
一方、方言詩人であった一戸謙三の詩(「弘前」(しろさき)/昭和11年)の一節に「春は三月、雪切りす時、蓬来橋の夕方 久渡寺山の方ゴト見わたせば、大円寺のぼやらアど紫だ杉の間ね 立て居る五重の塔、飛んで行グ鴉」というのがあり、雪切りが弘前の3月の風物詩であったことがわかる。
雪切りは、地域の人が総出で協力し合って作業することで初めて成り立つ。雪は北国の人々にとって大きな障害となるが、反面、それが地域の潤滑油になっていた面もあったのかもしれない。
佐々木直亮 ささきなおすけ sasaki naosuke
今から30年前、弘前に住むようになって、東京生れの私にとっては何もかもがめずらしく、撮り続けた写真集が、衛生学教室のアルバムになった。
昭和59年7月に、第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されることになった記念に、その中の何枚かを“人々と生活と”というテーマで選んでみた。
ここに写された生活はもうほとんどみられない。青森県の津軽・南部の、又一部秋田県での人々の生活の記録は、それなりに意味があるものだと思う。人々はそれぞれの土地に生活し、その様子は無限にあり、そのほんの一部をのぞきみたにすぎないものだと思う。
しかし衛生学者としての私は、そのシイーンに何かを意識しシャッターをおしたので、一枚一枚にそれなりの意味があり、記憶に残るものがある。
東北地方には“あだる,といわれていた病気があった。その謎ときに30年を過してきたのだが、その研究にとりかかった当時は、その原因として“労働”が考えられていた。
東北地方の人々の生活、とくに労働については全く知らなかった私は、まず労働を知らなければならないと思った。そのために週に一回、自転車にのって学校の近くの田畑にかよって、一年を通して農家の人々の労働をみにゆき、写真を撮り続けていった。
「人々と生活と」巻頭言より