「祭」シリーズ 写真NO.227
「弘前公園の桜」と題された、昭和31年5月3日に弘前公園内で撮影された写真である。佐々木先生一家も桜を見物に出かけ、その際に撮ったものであろうか。
屋台のお店がずらりと並んでいる。正面には「加藤食堂」の看板が見える。お酒の色々な銘柄が書かれた看板も見える。地酒の銘柄も見えるので、当時の津軽地方で作られていた地酒の種類を知る上でも、貴重な資料となる。亡くなった親父は、「白梅」をよく飲んでいた記憶がある。「ニッポンビール」という看板も見える。「サッポロビール」の銘柄が全国的に用いられるようになるのは昭和32年からなので、撮影日とも矛盾しない。「ニッポンビール」の名称が用いられた最後の年の貴重な映像でもある。
観覧客は、皆、着飾っている。当時、市中に田舎から出て行くことを「町に行く」と言って、ある種、「別世界」に旅するような気分だった。勿論、「町っ子」に軽蔑されないようなきれいな服装でなければならなかった。中・高校生は勿論、制服。小学生も左端の女の子のようにセーラー服を持っている子はそれを着ていったような記憶がある。付き添いのおばあさんは着物で正装しているが、顔には「ほっかぶり」をしている。この頃は、このような姿がまだ、奇異には感じられなかった時代なのだ。
「米」シリーズ 写真NO.25
弘前大学医学部の佐々木先生の教室は、弘前市在府町にあり、自転車で5分程西に走ると津軽藩の菩提寺である長勝寺に至る。その端は、岩木川によって浸食された河岸段丘になっており、西に津軽の霊峰-岩木山を望むことができる。その場所からのショットのようである。写真集には、「25 長勝寺のうしろから岩木山を望む(昭31・11 弘前市旧駒越村)」と記されている。
この場所は、今では一帯が城西団地となっており、昔を知る由もなくなっているが、昭和30年代はこのような純農村地帯であった。11月、岩木山山頂は既に、うっすらと白く雪で覆われ、農家の屋根や水田の畦にも白いものが見える。写真に写っている農家の屋根は、意外とトタン屋根が多く、伝統的な茅葺きの屋根がほとんど見られないのに驚かされる。小生の実家は、弘前市の東部の農家であったが、昭和30年代中頃でも周りは、圧倒的に茅葺き屋根の農家が多かった記憶がある。それが何による違いなのか、調べてみるだけでも面白そうである。
農家の裏庭には、円筒形の大きな「ワラニオ」?が数個並んでいる。農業に詳しい知人に聞くと、これは田んぼから運んできた脱穀前の稲を積み上げているという。11月から1月にかけて、雪が降っても脱穀しているのは、当時は当たり前だったようだ。正月を過ぎ、ようやく脱穀が終わり、一休みの時期が旧正月だったとか。
「住」シリーズ 写真NO.134
「冬の洗濯」と題された昭和31年1月に弘前市狼森で撮影され写真である。「寒い冬に外で洗濯をしているのをよくみかけた。洗濯をしている当の本人は、つめたいと思っていないのだと生理学的に考察した。しかし軒下にほした洗濯物はいつ乾くのだろうとも思った。」とのコメントが添えられている。
男の私は、厳冬期の、それも屋外で手洗いで洗濯するなんという経験はもちろん無い。東京に遊学した大学生時代、6帖の安アパートで仕方なく、手洗いで洗濯した以外は。記憶にあるのは、お袋が昭和30年代から40年代にかけて、手洗いで洗濯をしていたような記憶がかすかにあるだけだ。洗濯物をこの写真にあるように屋外に乾かしていたのかは覚えていないが、最後は練炭の入ったコタツの内側に洗濯物を入れて乾かしていたのを記憶している。洗濯するのは主婦の役目と言ってもそれは大変な仕事なので、下着などの着替えもそんなには頻繁にできなかったような記憶がある。
男にはついぞ向かない対象を、しっかりと写真に収めていた佐々木先生の視点に驚くばかりだ。流石、衛生学者である。
佐々木直亮 ささきなおすけ sasaki naosuke
今から30年前、弘前に住むようになって、東京生れの私にとっては何もかもがめずらしく、撮り続けた写真集が、衛生学教室のアルバムになった。
昭和59年7月に、第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されることになった記念に、その中の何枚かを“人々と生活と”というテーマで選んでみた。
ここに写された生活はもうほとんどみられない。青森県の津軽・南部の、又一部秋田県での人々の生活の記録は、それなりに意味があるものだと思う。人々はそれぞれの土地に生活し、その様子は無限にあり、そのほんの一部をのぞきみたにすぎないものだと思う。
しかし衛生学者としての私は、そのシイーンに何かを意識しシャッターをおしたので、一枚一枚にそれなりの意味があり、記憶に残るものがある。
東北地方には“あだる,といわれていた病気があった。その謎ときに30年を過してきたのだが、その研究にとりかかった当時は、その原因として“労働”が考えられていた。
東北地方の人々の生活、とくに労働については全く知らなかった私は、まず労働を知らなければならないと思った。そのために週に一回、自転車にのって学校の近くの田畑にかよって、一年を通して農家の人々の労働をみにゆき、写真を撮り続けていった。
「人々と生活と」巻頭言より