—津軽・刺こぎん、南部・菱刺に見る文様と繍技のドラマ
相馬 貞三
刺こぎんの由来
青森県といえば津軽の刺こぎんと南部の菱刺の二つが手仕事の代表のように挙げられる。往時、労働用の刺子着は全国的に行きわたっていて、なにも青森県に限られたものではなかったが、今日、刺子着といえば必ずこの二者が引き合いに出されるようになったのはなぜであろうか。
もともとこの二者は、あくまでも土地と生活に根ざして育ち、息づいてきた特殊な地方刺繍の一分野というべきものであった。それがその特殊性を逸脱することなく、むしろ徹底した結果として、地方色をなんら失わぬまま普遍の美をもつ、大輪の花を咲かせることになったのである。
一般的な労働用の刺子着が、刺こぎんの花を咲かせるに至った始まりはいつのころか、今のところ判然としない。こぎんの文字を調べてみると、津軽藩の『御国日記』などでは元禄期(1688‐1704)にさかのぼって散見されるが、それが単に小衣の意味か、後世の刺こぎんの技法の施されたものを含んでいるのか、いずれとも判別できない。
しかし、津軽は本州の北端に位置して、冬期の寒冷はきびしく長い。しかも綿花栽培には不向きである上に、藩は藩内需要の木綿の移入を制限し、農民にはその着用を禁じていた。禁令はしばしば発せられて、そのため彼らは衣服のおおかたを自家製の苧麻、大麻などに頼るほかなかった。
したがって麻衣には、労働のみならず防寒の工夫も加えなくてはならない。ここに風を通さぬために布目をできるだけふさぐ工夫が試みられ、刺子総刺の繍技が生まれるようになった。そしていずれにしても布目を整然と緻密に刺すことが、もっとも効果的であることに気付くのである。
さらに、その布の緯糸の間を一定の数律(奇数・偶数の数の決まり)で目(経糸)を拾って縫い進め、針を返してその上方か下方に一目もしくは二目ずらしに、これまた緯糸の間を前記と同様の数律によって刺すことを繰り返せば、ついには菱形の文様が現出するのに気付いたのも、必然であったろう。
刺こぎんの定着
だが、明和6年(1769)の代官奢侈禁止令の中に刺こぎんの意と解される「小巾」の文字がみえ、以後落日記の中にも「差小巾」、「差綴小巾」などの文字が散見されて、ほぼ衣服の分野における刺こぎんの繍技が想像されるに至る。
つづいて、天明8年(1788)に津軽藩江戸詰藩士比良野文蔵貞彦が津軽に来て、この土地の風俗を写し集めた『奥民図彙』には、刺こぎんの図が載っており、これによって明瞭に当時の実情の一端をうかがうことができるのである。
それによると刺こぎんに三体あり、常体、惣体、伊達サシであると注記されている。また、サシコギヌとしてその説明には、「布ヲ糸ニテサマサマ模様ヲ刺スナリ。甚ダ見事ナリ。男女トモニ着ス。多クハ紺地ニ自キ糸ヲ以テサス。長サハ一身有半」(句読点筆者)とある。今の写真とは違って挿絵では模様の細部など明らかでなく、おおよその構成の形が看取できるだけだが、繍技としてすでに充分見応えのあるものに発達していたことがわかる。
その約60年後の弘化4年(1847)藩内印行の春興刷りの図版に接すると、図中の若菜摘みの庶民の着衣に刺こぎんが描かれていて、『奥民図彙』中の図に比較しての変遷がみられる。
ここに至って刺こぎんの様式はほぼ定着して、以後藩内流布の形態はほとんどこの形が主となっている。すなわち肩、胴部前後を小巾麻布二枚を身頃として全面をこぎん刺(刺こぎん技法による)とし、袖と裾はそれぞれ別布をもって作る。これを体裁の上からいえば(大まかではあるが)、身頃に袖細く、裾を短くつけたものが主として労働着となり、広袖で裾長のものが一般に外出着、晴れ着となる。
文様の美と、質実の味わい
ここで前出の『奥民図彙』とこの春興刷りの図中の刺こぎんの比較の上で、もっとも注意すべきことに触れておきたい。
私どもは現在多くの遺品によって、刺こぎんは奇数律が基本だと考えがちであるが、『奥民図彙』をよく見るとそれがおおむね偶数律の横長菱であることに気付く。その約60年後の春興刷りが出た時点では、それが縦長菱に変わっているのである(このことについては南部菱刺の項で、二者関連の上で述べる)。
刺こぎんは比良野貞彦も記すように、主として濃紺の小巾布に未晒しの麻糸をもって刺した。したがって布地の青黒さと、模様の白さの対比が際立って美しい。一方、藍染の布に共色の糸で刺したものもあり、これは一見して目立たないが、凝視すれば質実のうちに手厚い模様が泛かんで限りなく心を打つ。後者は男物で主に老人がこれを着用した。
幕末近い寛政3年(1791)、藩は篠巻綿を下級武士の婦女子たちに下げ渡して、手織木綿の製作を奨励する。これが弘前手織の発祥となるのであるが、こうしたことがまた、刺こぎんの刺し糸を綿糸をもってすることの手づるともなり得たことであろう。
ついで藩都弘前では、宮川久左衛門を通じて綿糸の市販が許されるようになった。綿衣は藩の禁制であったが、木綿がいかに肌ざわりのよいものか、農民たちが知らないわけがない。いや木綿こそは、彼らのあこがれであったであろう。だがそれの叶わぬとき入手した貴重な綿糸で麻布を刺し埋めればすばらしいことではないか。
ほどなく幕府は崩壊し、明治2年(1869)津軽藩も藩籍を奉還して藩内の諸禁令はすべて解消される。わずらわしい拘束からはいっさい解き放たれ、かくて、農家の女子の刺こぎんへの夢は爆発するばかりに膨らみ、誰はばかるところなく製作され、繚乱たる刺こぎんの黄金期を現出させるのである。しかも、保温の用という原点の配慮を忘れることなく、そしてそのことがまたこの繍技をいたずらな技巧の陥穽に陥ることから終始救うことにもなった。
刺こぎんは、その刺し方の様式を分布の地域によって三つの名称に分類する。弘前を中心に、西方岩木山麓に至る中津軽郡一帯で行われたものを「西こぎん」、弘前の東および東南方の南津軽一帯のものを「東こぎん」、北津軽郡と西津軽郡の一部のものを「三縞こぎん」と呼んだのである。
繍技としてはどれも奇数律に統一(若干の例外はあるが)されており、それぞれの文様はそれぞれの与えられた条件を極限まで活用して、独自に充実した様式をみごとに完成している。
南部菱刺の発祥
菱刺もまた刺こぎんの場合と同様、農民の着衣として成長したものであるから、特別の記録でもない限りその実態解明の手がかりは得難い。そして今のところ、具体的に探索し得る資料の発見や提示はなされていない。
南部藩でも衣服上の規則は津軽藩に劣らずきびしく、身分差別を伴っての木綿合羽着用無用令(寛政7年=1795)などの禁令が、容赦なく発令されており、仮に綿衣の着用が許されたとしても、貧しい農民がこれをふんだんに用いる状況になかったことは明らかである。したがって自家製の麻布が主な被服の座を占めたことであろうし、刺子着が主流であったはずである。ただし、その刺子着がいつのころから、繍技として菱刺の方向をたどり始めたかは、皆目わかっていない。
その分布の地域をみると、南部領とはいっても津軽に地続きの上北部、それに隣接する八戸、そして五戸を含む三戸郡がその地帯であって、現在の岩手県域までには及んでいない。このことから、当然両者を含めて東北北端の一区域として解明を加えてよいと考えられるのである。その手がかりとなるのが、刺こぎんの項でもふれた『奥民図彙』である。
菱刺と刺こぎんの対比
ここで繍技の上から、刺こぎんと菱刺を比較してみよう。刺子着をその母胎とすることにおいて両者は変わりがなく、ともに小巾布の緯糸の間に刺糸を割りこませて一定の数律で刺し綴るのだが、刺こぎんは奇数律をもってし、これに対し菱刺は偶数律をもってする。次の緯糸(上方もしくは下方)間に刺し入れる糸は、前者は奇数律の一目ずらしによって刺し進み、後者の菱刺は偶数律の二目ずらしである。このようにいずれかに一定しないと、幾何学模様であるので最後には納まりがつかなくなる。
このようにして現れる文様は、同じ平織の布であるとすると、前者は縦長の菱、後者は横長の菱模様となる。後期における刺こぎんは前者の道をたどり、南部菱刺は後者の道をそのままたどって、のちまで変わらない。
では、初めから両者は画然と相違していたのであろぅか。『奥民図彙』のサシコギヌの図(13頁下写真参照)を見ると、そうではなかったことがわかるのである。
たとえば、同書中の亀甲文のごときは、明らかに菱刺としての性質が現れており、そのほかの模様もおおむね横長菱と看取され、総体に偶数律の地刺とも関連して菱刺が主体をなしていたことが推察される。
由来、南部と津軽の両津はとかくそりが合わず、政治面での交渉は親密さを欠いていたとはいえ、八甲田山系の丘陵を越しての交通は、必ずしも完全に途絶していたわけではなかった。まして庶民の生活上で、互いにとつて有益なものを是が非でも拒む理由はあり得ない。農作業とともに、相互の生活の向上に役立つ繍技の伝播と影響があったことは、この点からも考えられることである。
同地同根から独自の姿に
ただし、『奥民図彙』があったから津軽が親であり、南部菱刺がその分流であると今すぐに断定するつもりはないがこのようにたどってみると、まだ漠然とながら発生時を探る一つのいとぐちになるようにも思われる。
いずれにせよこの二者は、同地同根でありながら、中途からそれぞれの道をたどって紛れることもなく、それぞれに独自の方向を極限にまで押し進めて発展したのである。このことは現存の遺産が雄弁に証拠づけている。
刺こぎんが長衣としてもっぱらその特徴を発揮したのに対し、菱刺は麻布の両肩と背面を刺し飾ることもしたが、もっとも力を入れたのはたっつけ(股引き)であり、前掛けであった。
このことは、両地域の農作業での相違から来るといえるであろう。水田地帯が主な津軽は、泥に汚れる股引きにまで繍技を施す意図などはなかったであろう。これに反し八戸藩の南部は岡作の比重が高く、勢い農民は畑作業のほか原野での仕事が多く、このことが、たっつけの装飾につながったのではなかろうか。
また、これは偶数律をかたくななまでに守りとおしたことと、無縁ではないといえるかもしれない。なぜなら刺こぎんは補強、保温のためとひとくちに言うものの、この二つの目的を兼ねる場合、奇数律に刺して縫う刺糸によって、経糸の負担が必ずしも少なくない(極端な場合には負担が一本の経糸にだけかかる)からである。もし保温を条件に入れなければ、偶数律にしたほうが経糸の負担は軽くなる(最低でも二本)はずである。農作業のとき、もっとも動きの多い脚部を覆うたっつけは、むしろこの補強のための原理に従ったものといえよう。
創意に富む菱前掛けの技法
ところで菱刺は、本来の性格に添いながらいまひとつの驚くべき発展を遂げる。それが前掛けである。
菱刺は偶数律で刺すため、核となる模様が奇数律に比べてはなはだ少ない。また、核模様の単位が大きくなるため、刺繍面での紋様の変化はややもすると単調な繰り返しとなってしまう。一方、刺こぎんは核模様を囲む流れと囲みに構成上の伸縮性を賦与することから、複雑な変化をもたらせるが、菱刺は融通のきく模様の構成が比較的むずかしい。だがこの弱点を逆に工夫して活かしたのが、菱前掛けであったのである。
菱前掛けは三巾前掛けといって、体裁の上からは正面の一巾を前巾と呼び、菱刺を施し、これに左右に一巾ずつの濃紺もしくは黒の木綿布を縫い合わせたもの
である。
これを農村の乙女も主婦も身にして、晴れの場へ出た。勢いその刺繍は華やかとなり、やがて前巾の刺繍に色刺しが登場することになる。
たっつけにも仕事着にも、麻の浅黄地に白と濃紺の木綿糸を、適宜の巾の中に交互に刺して、だんだら模様をほどよく表現したのである。前掛けにもこれは用いられたが、さらにこれに毛の色糸を用い合わせて、色によって構成と調節をさらに工夫した。
その場合、たとえば中心の核模様を四つ、あるいは九つと合わせ刺した周囲に、大きく別色の糸をもって核模様を刺し連ね、それをもって前述の核模様を区切る役目とするのである。ちょうど刺こぎんにおける囲みに相当しているが、それぞれの色の違いによってまったく別の趣が生まれる。
これに、地刺から変化した綾杉(アイスギとも)模様で縁取りをし、中央部の模様をことさらに際立たせる。かくして他に比類のない、素朴にして華麗な前巾が仕上がるのである。
繍技の衰退と蘇生
残念なことに刺こぎんは大正の初期に、また菱刺は昭和の初期に至って、長い製作の跡を絶った。押し寄せる利便一方の丈物と、社会生活の変化を経験して土地の人々自体、過去の遺物と忘れ去ることに急であった。
しかし、中央では、民衆工芸を見直し、生活のうちにある新しい健康美を求める運動が、すでにこのころから勃興し始めていた。刺こぎんと南部菱刺とを特集して、雑誌『工藝』第14号が出版されたのは昭和7年(1932)のことであるが、人はこの書によって、かつては旧来の陋習の塊のごとくみなしたこの刺こぎんと菱刺にこそ、まぎれもない生活に根ざした真実の美を見出して驚嘆するのである。
この二者の繍技は、ともに数律を基本とする。今これに忠実に従い、これを利用して、よい材料に愛情を往いで活かすことを試みれば、往時のそれに劣らぬ作を産み出すこともできよう。
ただし、流動する生活への対応を欠けば、ともすればその作は過去への愛惜と郷愁以上に出ることはできまい。だが流動相のみに心を注ぎ、いたずらに繍技の新奇さだけを追うなら、かつての農民の生活の基盤をなした平常の用の心を離れ、技は浮華する技巧に沈むばかりとなるであろう。
暮らしに徹しきることによって、刺こぎんと菱刺は美を美として追うことさえしなかった。その刺こぎんと菱刺の作品群には、今なお私たちの心を打つことをやめない、いのちの脈搏が鼓動している。
刺こぎんと菱刺の新しい製作の出発のときに当たり、脈々と湛えて衰えることのない新鮮ないのちの声に、思いをこらし心をむなしくして耳を傾け、ただ新奇な作にはしることなく、生活の真実の美を学ばなくてはならないのである。
・『日本の技1 みちのく至芸の里 東北・北海道』(昭和58年集英社発行)より、転載しました。