明治41年(1908) 12月23日、青森県南津軽郡竹館村字唐竹に生まれる。
父・相馬貞一、母・ミネの三男
大正 4年(1915) 平賀町竹館小学校入学。
〃 11年(1922) 弘前中学(旧制)入学。
昭和 2年(1927) 弘前中学(同)卒業。以後三年間父の看病を兼ね家の仕事を手伝うが、この間に柳 宗悦の「工芸の道」に出会い民芸思想にふれる。
〃 5年(1930) 文化学院入学。在学中、柳 宗悦と知り合う。
〃 8年(1933) 文化学院文学部卒業、平賀町にもどる。以後父の仕事を手伝いながら(竹館村農業会)民芸に取り組む。
〃 11年(1936) 弘前市物産陳列館において「諸国民窯小展」を主催する。
(7月10日〜12日) この年、日本民芸館が設立される。
〃 12年(1937) 弘前市物産陳列館において各地民芸品の展観をする。
(7月10日〜12日)
〃 13年(1938) 弘前市物産陳列館において「朝鮮現在民芸展」開催。
(8月13日〜15日)
〃 14年(1939) 弘前市物産陳列館において「民芸作家十氏展」開催。
(8月12日〜14日) この年の暮れから翌年にかけて、柳らと沖縄を旅行する。この頃から代用教員となる。
〃 15年(1940) 青森県民芸同好会発足。会員氏名、宮川義道、棟方志功、高橋一智、相澤仁太郎、平山文三郎、石澤善次郎、相馬謙次、相馬貞三。
〃 16年(1941) 弘前物産館において「弘前民芸展」開催。青森県民芸同好会とたくみ工芸店の共同主催。(8月9日〜11日)
12月24日、原 フクと結婚。
〃 17年(1942) 日本民芸協会青森支部発足。会員氏名、平山文三郎、相馬友彦、相馬謙次、棟方志功、高橋一智、佐藤爾作、相馬八郎、竹村七之介、相澤仁太郎、佐藤情戒、相馬利雄、相馬貞三。
日本民芸協会理事に就任
昭和26年(1951) 弘前市土手町にマルワ呉服店を開く。
〃 28年(1953) 弘前市山道町付近に朝書房を開く。のちに工芸品も扱うようになり「つがる工芸店」の母体となった。
〃 33年(1958) 日本民芸協会第12回全国大会が青森県で開催。
〃 35年(1960) 弘前市文化財審議委員を以後勤める。
〃 37年(1962) 民芸館展審査員を以後勤める。「みちのく民芸」創刊。
〃 38年(1963) 「県下民間彫刻展」県民芸協会主催
〃 39年(1964) 「県内民芸品展(金工)」
〃 40年(1965) 「郷土民芸展(陶磁器・菱刺・小絵馬・凧絵)」
〃 41年(1966) 「民間木工・塗工展」
〃 44年(1969) 万博出展日本民芸館東北地方代表委員長を勤める。
〃 45年(1970) 青森県文化賞受賞。
「染色民芸古作展」 県民芸協会主催。
〃 49年(1974) 日本民芸協会第28回全国大会が青森県で開催される。
〃 53年(1978) 「青森県編組工芸展」 県民芸協会主催。
〃 54年(1979) 「全国民陶展」 県立郷土館・県民芸協会主催。
〃 55年(1980) 日本民芸協会全国大会で講演、「美の法門」研究。
〃 57年(1982) 日本民芸夏期学校(弘前会場)において民芸講座講演。
「美の法門研鑽」。
「県下新古民芸展」同時開催。
〃 58年(1983) 「くらしの美」 民芸講座講演。「民芸と作家について」
〃 59年(1984) 〃 〃 「くらしと美」
〃 60年(1985) 〃 〃 「用と美について」
〃 61年(1986) 〃 〃 「願と美」
〃 62年(1987) 〃 〃 「美と信」
同年春に勲五等瑞宝章を受章する。
〃 63年(1988) 病気入院、手術を受ける。
平成 元年(1989) 9月25日午前6時30分、心不全のため弘前市森町の自宅で永眠。享年80才。
※「みちのく民芸」第26号より作成した。
「相馬貞三と青森県の民藝−県立美術館の展示にあたって」
青森県立美術館 学芸主幹 池田 亨
青森県立美術館は、その設立理念の一つとして、「青森の芸術風土を世界に向けて発信する」ことをかかげている。展示の核になるのは、棟方志功、工藤哲巳、工藤甲人、阿部合成など、青森県の風土を強く意識しながら自らの芸術を形成した作家たちであるが、これほどまでに地域の特性にねざした特徴をもちながら、国内外で高く評価された作家を輩出しているという点は、青森県の芸術の大きな特色である。
これらの作家の美意識の源泉の一つとしてあげられるのが、北の風土の中で磨き抜かれてきた、青森県の民藝である。棟方志功はいうにおよばず、工藤哲巳は晩年に津軽凧をモティーフにした作品を制作しているし、意識的か否かは別に、工藤の初期の暗い赤や茶、緑の色が混沌と渦巻くアンフォメル作品に津軽塗りと共通する色彩感覚を感じ、豊島弘尚の初期の鮮やかな色彩の幾何学的な図形を構図の中心にした作品に南部菱刺しの反映を見出すことも可能であろう。今回、青森県民芸協会の御協力をいただき、相馬貞三生誕100年という記念の年に青森県の民藝の展示ができることは、まことに喜ばしい。
今回準備にあたって相馬貞三の著作をよみなおし、改めて感銘をうけた。西洋のキリスト教神秘主義と東洋の仏教哲学がその根本にある、難解ともいえる柳宗悦の思想を咀嚼し「民衆の工藝」としての民藝の意義を、それが生み出された生活の現場に根ざして考え、実践している点において、相馬の仕事はかけがえのないものである。
民藝については、生活の中で生まれた道具の美だけに注目し、生活そのものにはまったく注目しない、鑑賞におぼれた態度ではないかという批判がある。しかし、相馬は、こうした批評に対しても明確に答えている。『美の法門研鑚』中におさめられた講演「東北の民芸について」で、相馬は津軽こぎんの復興について述べている。戦後、こぎんの制作を復興するにあたり、相馬は、過去において完成され、現在は防寒の点からも必ずしも必要でなくなったこぎんを再びつくる必要があるのか、また封建時代の農民の苦しい生活の中から出てきたこぎんを美しいからといって取り上げるのは単なる遊びではないかと自問する。刺すことが苦しいのなら、この仕事はやめるべきと覚悟してこぎんの刺し手にたずねたところ、いったん針が乗ってしまえば、楽しくてやめられなくなる、との答えを得る。これにより、復興への心を決めるのである。このことから、相馬は担い手であった主婦達の喜びであったのだとし、同じ南部の菱刺も「聖域」であった、そのようにして大事にされたからこそ、その美しさがうまれたのだと説くのである。いわゆる「用の美」ということの意味を実践の中から明らかにした相馬の言葉には説得力がある。また深い思索と実践あるゆえに、相馬の筆なる民藝品の解説は簡潔にそれぞれの個性的な美と、そのよって来るところを説いて間然するところがない。今回の展示では相馬の解説とともに、長い年月によって熟した本県の民藝品の「用の美」を紹介したいと思う。
近年、日本の美術史の分野では大正時代から昭和初年の工藝をはじめとする美術運動への見直しが進み、民藝運動や柳宗悦の思想にも新たな注目があつまっている。また、若い世代には北欧などの自然の環境や素材と調和したライフスタイルへの関心とともに、日本の地方の伝統的な素材や技術を生かした家具や調度品への関心がうまれ、民藝品にも熱い眼が注がれている。今回の展示がより広い世代の人々に、暮らしの中に育まれ、見出された美への関心を伝えてくれれば幸いである。
(「みちのく民藝」より)