昭和49(1974)年8月 あの日あの時
その場所は更地となって、弘前市山道町に残されています。しかし、そこには間違いなく、あの日あの時、「つがる工芸店」が息づいています。
古びた店構え、正面入口にはさり気なく、棟方志功画伯揮毫の看板が掲げられています。店内には、所狭しと民芸関係の品が並べられています。店主の相馬貞三さんのきりりとした顔立ち。往時には、6人くらいの従業員さんが働いていたそうです。
当時を知る方には、あまりにも懐かしすぎる写真では!!(写真撮影:會田秀明氏)
相馬貞三さんのこと 黒瀧せつぎ
相馬貞三さんとのご縁については、まず私の二人の姉たちから語ってもらわなければなりません。上の姉は私とは6歳違いで、弘前の家政科の女学校時代に、当時、山道町6番地にあった「つがる工芸店」に足を運ぶようになりました。かれこれ60年前、即ち昭和20年代半ばのことです。工芸店の隣りは古本屋で、学校に近いその二店を覗いて見るのが放課後の “日課”でした。工芸店には目ぼしいものがたくさんあり、のどから手が出るほど欲しいものばかりで、ありったけ背伸びをして大冊の美術書や陶磁器類、豆本、各地の民芸品などを月賦で分けていただきました。
こぢんまりとしたお店には相馬さんの審美眼にかなった品々が所を得て並んでおり、全国の銘菓の頒布会という珍しい企画もありました。
相馬さんの尋常でない豊富な学識と柔和なお人柄に魅了された客も少なからずいて、いつの間にか常連となって出入していました。(弘前の西郊のかやぶきのご自宅に招かれ、季節のご馳走を持ち寄って会食の席に居並んだ10人がかりの津軽の“古つわもの”もそういったお仲間たちでしょう。)
やがて民芸の講演会の受付係や、学生の身でこぎん刺しの講師を頼まれるなど、少しずつ役割をいただき、「生きた図書館」よろしく、向学心を満たしながら足しげく通ううち、知らず「人生の骨格」を培っていただいたと思います。
東京の文化学院で学ばれた相馬さんの自由闊達な生き方に触発された10余年を過ごし、その後姉は進学のため上京して、同じように大きな気概と深い洞察とを併せ持った服飾界の先駆者の一人山脇敏子氏の知遇を得、再び水を得た魚のように解き放たれて、30余年の教壇生活を全うしました。弘前を出て50年になりましたが、時にしみじみと、有り難いふるさとの師とのご縁を懐かしんでいる様子です。
次に4つ違いの姉ですが、前述の姉の影響の下、同じように女学生の頃、山道町に通いました。「教員になり転勤も多く、お餞別やお礼の品々を工芸店から多く求めていました。工芸品が好きな相手に選んで贈って、殊の外喜ばれました。」
重厚でシックなガラスのコップや、益子のコーヒー茶碗など、幼い子供達と一緒に毎日使ってきたものが、今となっては宝物で捨てられませんと50~60年前の食器を戸棚から出してみせてくれました。今見ても古びた感じがなく、そういう身近な小さな道具類が往時の思い出のよすがとして持つ意味は、結局それらを愛用した度合いが物をいうかと思います。成人した子供たち(甥や姪)を間近に見て、ものが人の心に無意識のうちに投影し、蓄積する、抜き差しならない何かを信じたくなりました。親子の幸せな時代を垣間見る思いがします。
最後に私自身のことですが、やはり姉達の影響を強く受けました。生家にも古い大きな皿鉢や壺、塗物、古布などが伝わってあり、工芸店に行き出して、自然に興味と関心が広がりました。中学・高校と、時たまお店にお邪魔をし、悩み多い時期を何かと過ごせました。学校という同世代の大きな集団から、わずか身を離してそこに居ると、気持ちもやがて静まり、快い緊張感のうちに何となく見えてくるものがありました。その時々に何をどのように言っていただいたのか、今となっては“往時茫茫”の感があり、夢の中のできごととなりましたが、相馬さんのうっすらと微笑を湛えた面影が眼の底に残っていて、尽きぬ温情を思い出させてくれます。