北の文明・南の文明(下)−虚構の中の縄文時代集落論

佐々木 藤雄

第2回目


 つい最近、国史跡の青森市三内丸山遺跡の集落論を語る上で、避けては通れ無くなると思われる論文に「遭遇」しました。「異貌」という一般の方はほとんど目に触れ得ないような雑誌ですが、25年くらい前に創刊された「息の長い」考古学関係の同人誌です。
 主宰者の佐々木藤雄さんが直接執筆された論文で、タイトルは「北の文明・南の文明(下)-虚構の中の縄文時代集落論-」(「異貌」第17号 1999年5月1日)です。中身は三内丸山遺跡の「集落論」に反駁をくわえたもので、三内丸山遺跡関係者からの反論が大いに期待されるような内容です。同人誌にひっそりと「埋もれさせておく」にはあまりにも大きな問題を指摘している論文と考えられるので、「青森遺跡探訪」で紹介させていただくこととしました。掲載にあたり、佐々木さんにはご快諾をいただきました。この場をお借りして、厚くお礼申し上げます。同誌を購入希望の方がいらっしゃいましたら、下記宛お問い合わせ下さい。
 長文の論文である関係上、2回に分けて紹介します。今回はその第2回目です。ご意見等がございましたら、掲示板に書き込みをして下さい。大いに論議しましょう。
 また、マスコミの皆さんに望むことは、「本家」発の情報だけでなく、このような「反対論」をも対等に取り上げていただくことによって、読者・視聴者に三内丸山遺跡を巡る多角的な視点を提供してほしい、ということです。

【問い合わせ先】◎申込先  〒248−0014 鎌倉市由比ガ浜4−6−17−2H(佐々木藤雄気付)
        ◎郵便振込 00120−5−61640番  共同体研究会



8 大きい・長い・多い−幻想の1000年王国

 分析課題に対する基礎的な検討や学史的な検証をあいまいにした、しばしば無節操としかいいようのない極端な「宗旨替え」が認められるのが日本考古学を特徴づける輝かしい伝統の一つであるとすれば、かつて大きな熱狂と支持を集めることとなった石井寛らの集団移動論(91)や近年の羽生淳子らの小規模集落論(92)の流れに代わって、今や縄文時代研究者の多くをとらえて放さないようにみえるのが三内丸山をめぐる3つのキーワード、「大きい・長い・多い」である。

 三内丸山の調査担当者である岡田康博は、この3つのキーワードがもつ意味を、「大きい」は本遺跡が巨大であること、「長い」は本集落が前期中葉から中期末葉にかけて少なくとも約1500年間継続していたこと、そして「多い」は本遺跡からの遺物の出土量が膨大であることを指すと説明した上で、次のようにのべている。

 「今から約5500年前、ここに集落が造られた時点での住居数は40〜50棟程度、1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口は200人前後だったようだ。その後、5000年ほど前から拡大しはじめ、4500年ほど前に最盛期を迎え、住居数約100棟、人口500人くらいの集落になっていた可能性が高い。その後集落は小型化し、拡散、分散していったようだ。」(93)

 さらにこの3つのキーワードのメジャー化に大きく貢献することになった国立民族学博物館の小山修三は、あたかも梅棹忠夫の宗教的都市論とクロスするかのように「中央に祭祀センターをもつ大人□の都市の姿が悠然と浮かびあがってくる」と三内丸山の基本的なイメージを描写した上で、次のように書いている。

 「縄文の村の人口はせいぜい30人ぐらいという説がこれまで一般的だった。ところが三内丸山遺跡はその巨大さから500人説をうむにいたった。しかし、この遺跡の広さや遺構の大きさを眼前にみると1000のオーダーの人口を考えることも可能である。しかし、30人の村と1000人をこえる町のあいだにはその社会の装置や制度のあり方におおきな違いがあるはずである。・・・縄文研究の中心であった土器編年は関東、中部地方を軸とし、東北地方では仙台だった。本州の中央部では中期に文化が成熟し、豪華な装飾をもった土器がその精髄をあらわし、石器をつかいシカやイノシシと木の実を主食とし、海岸部では貝塚を残した。その村は5、6軒の竪穴住居が環状に並ぶコンパクトなものであったことがわかっている。それが縄文時代の「正史」となり、教科書に掲載されて全国に広げられていったのである。・・・円筒土器文化は青森県を中心として岩手県、秋田県に色濃く、さらに海峡を渡って北海道にひろがっている。三内丸山遺跡はその中心だった可能性が強い。この都市は5500年前に姿をあらわしはじめ、1500年後に突然その姿を消した。ところが、その後この地には亀ケ岡文化と呼ばれる文化が再び花開き、日本列島の半分を制圧するのである。これは邪馬台国の北にある国の一つだった可能性がつよいのである。このような謎にみちた北の王国の興亡史はこれまで一言たりとも書かれることはなかった。今、「正史」に書かれた縄文社会のイメージをいちど白紙に還し、事実を見つめながら、北の縄文社会のあり様を再構築する必要があると思う。」(94)

 日曜日のお昼の「のど自慢大会」の度に繰り返される他愛のないお国自慢や、一方的な空想・憶測の類がマスメディアなどのフィルターを通されることによって表面的な真実性や権威性が付与され、その結果、時には「SF」顔負けの誤った情報が揺ぎのない「常識」・「定説」として我が物顔に全国を闊歩するのは、何も考古学だけに限った現象ではない。しかし、それにしても500人が簡単に1000人にすり替わってしまう小山らの「思考」と「論理」の背後に、内容とはまったく無縁な部分で見出しの大きさと過激さを競うスポーツ新聞の姿を思わず重ね合わせてしまうのは、はたして佐々木1人だけなのであろうか。

 三内丸山遺跡の前期の住居群は縄文谷を中心としてその西側に東西約80m、南北約140mの広がりをみせている。さらに中期の住居群は前期の住居群を囲むように谷の西側から南側にかけて広範囲に分布する傾向をみせており、谷頭部分に近い調査区のほぼ中央部、東部、南西部、北西部に先の方形柱穴列群がそれぞれ集中分布する。盛り土遺構による未確認部分も多く、その全体像はまだまだ不明瞭であるが、前述した本遺跡を舞台とする1500年継続説の背景には、円筒下層a 式から円筒上層の各型式を経て榎林式、最花式に至る前期中葉〜中期最終末までの土器が本遺跡では連続的な出土を示しているという「事実」が存在している。

 また、最盛期の同時存在住居数100軒、最大人口500人説の背景には、推定総面積約35へクタールといわれる本遺跡のほぼ7分の1にあたる野球場建設予定地(約5ヘクタール)を対象としたこれまでの調査だけで、中期を中心とする住居群が600軒近く確認されているというもう1つの「事実」が存在している。

 前者についていえば、遺跡から検出される型式的に連続した土器の分布が直ちに当該遺跡の継続期間の長さ、長期定住のメルクマールとはなりえないことは、先の集団移動論を引き合いに出すまでもなく、考古学の基本的な常識である。1500年という長期継続説は、土器型式の連続性に加えて、本遺跡の巨大さ、膨大な通物出土量という、まさしく3つの要素が一つに揃うことによってはじめて成立をみた仮説であったということが可能であるが、以上の仮説が最終的に受け入れられるためには、しかし、大規模な「都市」人口を長期間にわたって維持する膨大な食料の確保・貯蔵とあわせて、不断に再生産される膨大な量の排泄物の処理などの「都市問題」の解決が梅棹忠夫らのいう「神殿」以上に差し迫った懸案として浮上する。

 三内丸山では、前述した縄文谷の上部に残された前期の遺物廃棄ブロックより多量の鞭虫卵が検出され、付近に縄文人のトイレが存在していた可能性が指摘されている。しかし、水質汚濁のメルクマールとなる珪藻化石の分析では、本遺跡の実際の「汚濁の程度は弥生時代の環濠集落に比べて、はるかに清澄ものだった。人間が1500年もの間、継続的に生活し、かつ500人もの人が仮に100年間、そこに継続して生活していたとすれば、もっともっと環境の汚染は進行してよいはずであろう」という、先の仮説とは相容れない結果が明らかにされている。さらに花粉分析の結果でも本遺跡周辺では「何回かの森林に対する干渉力の弱化と森林の回復期が存在」することが明らかにされ、この面でも「1500年もの間、間断なく連続して人々が居住した」という神話に大きな疑問符が突きつけられている(95)。

 他方、後者との関連でも西田正規は長期にわたる「人口500人の集落」が成立するためには「この遺跡には9000軒の住居跡と13000の子供の墓、15000基の大人の墓がなくてはならない」という試算を提出し、その蓋然性に疑問を呈している(96)。

 本遺跡における現在までの住居確認数については報告者によるズレがあり、600軒という先の数字がどのような吟味を経たものであるかは不明であるが、三内丸山では、その後の調査でも以上の数字を大きく上回る住居群の発見がなされたという報告は今もって聞かれない。むしろ周辺部の調査を通して露呈されていたのは、小山らが限りなく広がる予想していた住居群の意外な分布の希薄さであり、かれらの仮説の陰に見え隠れする、かつての水野正好の群別作業(97)に代表される「あるはずだ」論の消しがたい幻影である。

 加えて問題は「関東地方に比べて未だ粗い段階」にとどまっているといわれる北東北の縄文土器編年作業の遅れである。当該地区をめぐる「確固とした土器編年」が実現されれば、三内丸山の「一時期の住居跡数は一挙に5分の1程度になることも有り得る」、しかも「同一細別型式の間にも住居跡の重複が考えられるので、実数はさらに少なくなるであろう」という大村裕の痛烈な批判(99)に、小山らははたしてどのように反撃するのであろうか。100軒・500人説への道のりは遠く険しかったといわなければならない。  

 それにもまして、この思いつき的な100軒・500人説のでたらめさを一層際立たせていたのが縄文集落に関する小山の過去の発言である。

 小山は先の引用文の中で「その村は5、6軒の竪穴住居が環状に並ぶコンパクトなものであったことがわかっている。それが縄文時代の「正史」となり、教料書に掲載されて全国に広げられていったのである」と中部・関東地方の中期集落を描写し、三内丸山に対する当該集落の小規模性を強調していた。

 しかし、その小山は、1986年の『週間朝日百科日本の歴史』の中では「関東、中部地方のムラは、大規模な発掘が数多くおこなわれてその全貌がよくわかっている。台地の全面を剥がすと、50軒以上もの住居址があらわれることがある。しかし、それらは何世代にもわたってつくられたもので、一時期のものは多くとも20軒ぐらいである」と書いている(100)。

 さらに1984年の『縄文時代ーコンピュータ考古学による復元』では、独自の試算にもとづいて千葉県船橋市高根木戸遺跡の中期集落の構成員数を120人以上、北側に隣接し、本遺跡の「兄弟村」の可能性がある高根木戸北遺跡とあわせた人口を200人以上、中部地方を代表する中期集落である長野県茅野市与助尾根遺跡の終末期の構成員数を約90人、本遺跡の本村の可能性がある尖石遺跡とあわせた人口を同じく200人以上と算定している(101)。いうまでもなくそこには、小山が三内丸山との対比で描くことになった5、6軒、30人ほどのコンパクトな中部・関東の中期集落の姿はどこにもみあたらない。あまりにも一貫性に欠けた、ご都合主義的な発言であり、学史の歪曲・改竄も甚だしいといわなければならない(102)。

 一体、「正史」を弄んでいるのは誰なのか。小山は中部・関東の中期集落に関する従来の発言を誤りと認め、それを全面的に撤回したとでもいうのであろうか。それとも小山は、三内丸山の「都市」の大きさを強調するためにもあえて過去の発言に封を施し、中部・関東の中期集落をことさら小さな「村」として描く必要があったのであろうか。

 三内丸山の集落規模・人口などの分析にあたっては、方形柱穴列をめぐる問題点にもみられるように、居住施設の可能性が考慮される当該期の遺構群全体に対する総合的な視点が不可欠であることはいうまでもない。そのための生きたデータが方形柱穴列・竪穴住居址の双方にわたって決定的に不足している現在、本遺跡における居住施設の実態、時空的な分布の具体相にかかわる議論の深化は決して容易な作業とはいえないが、しかし、こうした三内丸山遺跡の限られた情報の背後から「悠然と浮かびあがってくる」のは「中央に祭祀センターをもつ大人口の都市」でも、「謎にみちた北の王国」の揺藍の姿でもなく、「クリの巨木の中に家屋が点在」(103)する幻の「縄文都市」、幻想の「1000年王国」の姿である。中部・関東の同時期の集落と三内丸山との間に横たわる20倍から30倍という圧倒的な数量的較差は、数字と言葉の詐術が作り上げることになった虚構・虚像以外の何物でもない。

 歴史は、皮肉にも小山が正しくいいあてているように、まさしく「書き手の文化によって大きく左右される」(104)ものであったのである。

9 北東北縄文社会の地域性と社会性

 考古学的な営為とは、もともと高い歴史意識や思惟性とは無縁の存在なのであろうか。「日本の歴史は三内丸山遺跡からはじまる」。このように三内丸山に最大級の賛辞を贈ったメンバーの幾人かが、そのわずか数年後の「第一回 日本文化の原点・国分上野原シンポジウム」では、一転して鹿児島県国分市上野原遺跡を「世界文明史の出発点」と臆面もなく持ち上げていたことは前号に詳しい(105)。まさしく「官民こぞってシンポジウムで地方巡業を打つ」(106)という図式であり、鈴木正博のいう「俄か語り部」の面目躍如たるものがあったといってよい(107)。

 もちろん、小山修三の指摘にもあるように、集落論を含めたこれまでの縄文時代の研究は中部・関東を中心とした、きわめて強い地域的偏在性のもとに進められ、それに伴う矛盾・弊害を様々な場面で顕在化させつつあったことは否定できない事実である。その意味でも、北の三内丸山遺跡、南の上野原遺跡の発見は、従来の一極的な縄文時代像の見直しを通して当該期の集落や社会を真に列島的な広範な視野と多様な視点から再検討する絶好の機会と材料をわれわれに提供していたことは確かであり、また羽生淳子らの小規模集落論にとっては、自らの存在事由を問われる重大な事件として顕現していたことは疑いない(108)。

 しかし、今回、問題としている北東北についていえば、当該地域の集落や社会像の復元のためには、考古学的に実感の可能な「大きい」あるいは「多い」を歴史的にも明確な規定性をもった「大きい・長い・多い」へと昇華していく視点、遺跡のいわば「量」的な検討を「質」的な検討へと転換させていく視点の確立が不可欠であり、厳密な分析を欠如した一方的な情報をいたずらに煽りたてる物言いは、かえって発掘された成果の正しい評価と議論の深化を妨げ、きわめて畸形的な縄文社会像の創成と普及に貢献するだけでしかないことはすでに明らかな通りである。

 そうした意味からも注目される現象の一つが北東北と中部・関東の二つの地域の間で看取される集落構造の際立った違いであり、北東北から北海道に広がる円筒土器分布圏の集落の特徴を「直線的帯状平行配置」(図20)という言葉で表現する桜田隆は、円筒上層式土器の終焉ー大木系土器の北進と共に当該地域では集落構造が環状に変容するという重要な指摘を行っている(109)。

 また、谷口康浩も環状集落構造の本質を「竪穴住居・掘立柱建物・墓群・廃棄帯・貯蔵施設などを集約する重帯構造」に求める立場から北海道の前・中期集落に散見される環状構成と中部・関東を中心とする環状集落を同一視することに疑問を呈し、「中期の段階で明確な環状集落が分布する北限は、概ね大木式土器の分布する範囲に限られている」と述べている(110)。

 中部・関東を中心に前期から中・後期にかけて特徴的な分布をみせる環状集落の形成が単なる地理的・自然的要因や時間的な累積という要因だけでは説明の困難な現象(111)であったことを改めて想起するならば、「直線的帯状平行配置」と環状配置という対照的な集落の構成、および北東北における前者から後者への歴史的な転換の背後には、集団原理や社会的規制などにかかわる、一体どのような問題が潜んでいたのか。林謙作はこの他にも後期前葉の秋田県鷹巣町脇神伊勢堂岱遺跡を例に、北東北の張り出し付巨大環状列石と関東のハの字形張り出し付住居(柄鏡形住居)との間の図形的な関連性を指摘している(112)。これら地域性に富んだ問題点の解明は、北東北の縄文社会の歴史的な質を中部・関東の当該社会との対比においてうきぼりにしていく上からも今後の重要な課題であったということができるだろう。

 これに対し、北東北では、現在に至るまで集落の内的な構造や地域構造にかかわる実体論的な議論は一部を除いて不活発であり、家族・親族・部族などに関する一定の議論の蓄積(113)が認められる中部・関東を中心とした集落研究との間には、率直にいって容易には越えられない大きな壁が横たわっている。それは三内丸山をめぐる各種の議論においても同様であり、同時存在住居100軒、最大人口500人説から必然的に帰納される1軒あたり約5人という住居構成員に対する家族1世帯論的な検討、当該地域をめぐる親族・婚姻原理の具体相への論及もほとんどみられないが、そうした制約のもとであえて右の課題にかかわるいくつかの問題点を取り上げれば、前出の岡田康博は、「各時期を通して床面積が10平方メートル前後に集中する傾向がある」ことを指摘している(114)。

 前述したように居住施設をめぐる問題は方形柱穴列群を含めた総合的な考究が必要である。また、「同じ円筒土器文化の大規模かつ拠点集落」といわれる青森県六ヶ所村富ノ沢(2)遺跡では竪穴住居の床面積は大きく大・中・小の3つに分類されることなど、問題は決して単純ではないが、この時代の一般的な住居床面積20平方メートルに比べると、三内丸山の竪穴住居は、平均5人という住居居住員数、および500人という最大人口に改めて大きな疑問を抱かせるほど、明らかに小形である。こうした小形の住居が比較的均一な分布を示す本遺跡のあり方の背景には、一体、どのような歴史的意義と意味が隠されていたのかどうか。三内丸山における家族の性格や構成を考える上からもきわめて興味深い現象であったことは否めない。

 いま1つは大形住居、とりわけ東北地方を中心に北海道から関東、北陸地方に至るまで広範な分布をみせる、ロングハウスに類似する長方形大形住居の問題である。

 三内丸山では長軸が10mを超える大形住居が前・中期あわせて20軒ほど出土している。特に共同作業場説や集会所説、冬季の共同家屋説などに加えて神殿説や首長一族の家屋説の舞台ともなった超大形住居例は、長軸約32m、床面積約300平方メートルを測る威容を高床倉庫群の北西側にみせている。深く掘り込まれた床面とは裏腹に10m近い高さをもつ復元例には、率直にいって巨大木柱遺構のそれとも共通する景観的な違和感を覚えるが、ここでもっとも注意したいのは前・中期の東北地方にとりわけ濃密な分布をみせる長方形大形住居の存在であり、ロングハウスに類似した長大な平面プラン、規則的に配列された複数の炉、それに隔室構造を形成する間仕切りなどで特徴づけられた本遺構については、「複合単位形態」(115)という呼称にもあるように、複数集団の共同居住施設という見解が広く示されている。特に本遺構を5〜7家族が共住した「複合居住家屋(多家族家屋)」(116)とみる武藤康弘は、さらに最近の論考ではその性格を「屋内貯蔵機能を有する複合居住家屋」と明確に定義づけ、「関東地方に主体的に分布する長方形柱穴列と対峙するかたちで個別に分布域を形成している可能性が高い」という考察を加えている(117)。

 以上の武藤の作業には、方形柱穴列の多くを「高架形の貯蔵施設」とみなし、佐々木が先に指摘した長方形大形住居と相通じる要素をもつ大形の3−b類の存在を無視するなど、基本的な認識に関するいくつかの疑問点が指摘される(118)。また、三内丸山における肝心の複数の炉をもつ大形住居の分布についても現在までのところ不明な点が多く残されている。

 しかし、複合居住家屋がまさしく武藤のいうように「多家族家屋」としてとらえられ、しかもそれらの通年使用も認められるとすれば、こうした独特の居住形態をとる家族と一般的な竪穴住居に居住する家族の性格や規模、構成をまったく同次元において検討することがはたして可能なのであろうか。

 佐々木が一種の核家族から2つ以上の世代に核家族が連なる拡大家族までをも包括した、いうならば”ゆるやかな単婚家族″を当該期のもっとも一般的な家族像として呈示していたことは繰り返さないが、右の家族論の舞台となった中期後半期の中部・関東では、個別管理型貯蔵穴の不均等な分布にも象徴されるように、植物利用活動を中心とする複合的な生産諸活動と生産力の高まりに裏付けられた個別的労働と個別的占有の進展が各家族の経済・社会的な個別化・自立化とその不均等化を促し、強固な統一体としての集落の共同性との間に覆いがたい矛盾・軋轢を将来させていたこともよく知られている通りである(119)。当該期の縄文集落をめぐるこのようなダイナミックな動きは、はたして「多家族家屋」を主体とする集落・地域ではどのような貌をとってあらわれていたのであろうか。「多家族家屋」に共住する家族、さらに付け加えれば、小形の均一的な住居に居住する家族の個別化・自立化の進捗の度合いは、はたしてどのようにとらえられるのであろうか。

 ここには、家族の歴史的な性格から集落の結合原理、親族構造のあり方をも含めた多様な課題が内包されていたということができる(120)。

 小山は先の『週刊朝日百科 日本の歴史』において、石川県金沢市チカモリ遺跡や能登町真脇遺跡例など、三内丸山例に先行して発見された晩期の巨大木柱列のあり方に言及している。この中で当該遺構の建設に必要な労働力の集中的な投入の問題を取り上げた小山は、縄文時代の1つの「ムラの人口が実は何百人という大きなものあった」という仮定を「狩猟採集レベルの経済段階では、食料補給の点でいささか無理のようだ」とここでは真っ向から否定し、「多くのムラが協力し、数百、数千という人が集まったことが当然予想される。・・・縄文社会には一時的に大量の人びとを集結させるメカニズムがあった」という見方を示している(121)。

 時代も地域も異なるが、佐々木は異系統埋甕の分布を手掛かりとした中期後半期の長野県八ヶ岳西〜西南麓の通婚圏の分析から八ヶ岳連峰に沿った南北約21kmに及ぶ細長い地理的範囲を「通婚圏の最小の範囲」として措定するとともに、内部に多くの集落群を包摂し、最大400人前後の人口がみこまれる以上の地域的な結合体を、婚姻相手の交換、各種の物資・情報の伝達、集落群を超える協業や共同祭祀の執行、地域内・地域間にわたる対立・抗争の調停などの利害調整機能をもつ「地域共同体」(図21)として位置づけている(122)。

 このような「地域共同体」のあり方を地理的条件も歴史的条件も大きく異なる北東北にあてはめることはできないが、少なくともこの時期には三内丸山やチカモリ遺跡などの巨大遺構を建設、あるいは維持するに足る地域的なネットワーク、まさしく「集落群を超える共同祭祀の執行」を可能とする地域的な「メカニズム」が各地域で登場をみていた蓋然性はきわめて高い。しかも三内丸山を「500人もの人々が常時生活」(123)していた巨大集落、縄文都市とする論理が明確に破綻をきたしていた現在、本遺跡から出土した巨大木柱をはじめとする多数の特徴的な遺構群の存在を「矛盾なく説明する」ためには、三内丸山をたとえば「祭りや葬礼のたびに周辺の村々から人々が集まってきた祭祀センター」(124)的な集落とみるなどの、より歴史的な実態に即した多面的な分析・検討の試みが求められていたことは明らかである。

 三内丸山を周辺の集落群を統括する拠点的集落とみることについては、すでに発掘当初より多くの研究者の指摘がある。北東北における、こうした集落を超える地域的な関係への具体的なアプローチこそは、これまでにのべてきた当該地域の社会組織や原理にかかわる各レベルの議論を体系化・構造化する重要な基盤を形づくるものであったということができるであろう(125)。


10 結−虚構の中の縄文時代集落論

 渡辺仁の社会生態学的アプローチの先見性、民族誌学的新知見の考古学的知見への変換の可能性を高く評価する安斎正人は、「青森県三内丸山遺跡の発掘と同時進行的に、考古学の学理的手続きを十分踏むことなしに、渡辺が主張しようとしたこととほぼ同様のことが「新たな縄文時代像」として、しかも「文明」や「都市」のイメージを引っ提げてひとり歩きするようなことになってしまっている」と縄文都市−文明論をめぐる基本的な問題点を素描し、次のようにのべている。

 「縄紋時代前期・中期円筒下層・上層式期の三内丸山遺跡に現れた考古学的現象は縄文社会一般のモデル的姿ではない。また、三内丸山遺跡に表現された縄文社会の豊かさは、「文明」や「都市」といった農耕社会の制度化された豊かさと違って、資源の季節性、地域的自然環境の差異、食料資源の出現の年ごとによる大きな変動などの生態的条件に大きく制限されていた、常に欠乏の危機と裏をなしていた狩猟採集社会での豊かさ、複雑さの一面であったことを、見落としてはならない。」(126)

 また、新聞社文化部記者としての視角を交えながら縄文都市−文明論の虚実に言及する片岡正人は、小林達雄、佐原真、西田正規、藤森照信、森浩一らの批判をもふまえつつ、次のように書いている。

 「三内丸山で注目された巨大木柱や、長期間にわたって積み上げられた盛土、ヒスイなどの交易品、クリの栽培など、縄文時代の豊かさをうかがわせる事実は程度の差こそあれ、これまでに各地の遺跡ですでに発見されている。三内丸山遺跡は冷静に見れば、これらの総合に過ぎず、「狩猟採集民にしては成熟した社会を築いていた」という、近年になって定着してきた縄文文化に対する理解の枠の中に十分おさまるものではないか。」(127)

 安田喜憲は、これに対し、自らの縄文都市−文明論に対する批判を「今やこうした古い文明概念を捨てさり、新たな文明概念の下に日本の縄文時代を再考察すべき時にきている」という言葉とともに退け、その意味するところを次のように説明している。

 「都市や国家、文字、金属器などをそなえていなければ文明とはよべないという概念の下では、縄文文化はいつまでも原始的で野蛮な段階に甘んじざるをえない。しかし、縄文時代の社会は、自然と共生するというこれまでの文明にはなかったもう一つのすばらしい文明原理を持っていた。一万年以上にわたって縄文時代の社会でつちかわれた自然との共生・循環・平等主義といった文明原理こそが、地球環境の危機の時代に直面した現代人が求めているものなのである。「縄文文明の発見」とは、地球環境の危機に直面した現代人が生き残るための新たなる文明像の発見でもあるのである。国家や文字そして金属器の発生に文明の誕生を求める文明概念では、20世紀後半の近代工業技術文明の危機に活路をみつけだすことができないのである。」(128)

 しかし、すでに明らかなように、右のような安田らの縄文都市ー文明論は、歴史的にも、また論理的にも、決して看過することのできない大きなわい路に陥っている。安田がいうように「縄文時代の社会は、自然と共生するというこれまでの文明にはなかったもう一つのすばらしい」原理をもっていたとすれば、この「一万年以上にわたって縄文時代の社会でつちかわれた自然との共生・循環・平等主義」こそは、今や疲弊しきった「文明原理」に代わりうる原理、まさしく「文化原理」というべきであり、それを何故、安田はわざわざ「文明原理」という言葉に置き換えなければならないのか。「縄文文明」、「文明原理」に固執する安田白身の論理の端々からは、文化を文明より劣位な存在、下位の概念とみなす、まさに手垢にまみれた文明観、旧態依然たる文明史観がその顔を覗かせていたといわなければならない。

 もちろん、岡田康博も指摘するように「三内丸山遺跡の発掘の成果は、その質・量ともにこれまでの縄文時代観」を根底から揺るがす圧倒的な迫力とともにわれわれの前に登場をみていたことは疑いのない事実であり、それをもって新しい「縄文学」の出発点とみる岡田の考えは相応の説得力をもっていたということができる(129)。

 しかし、これまでに概観してきた三内丸山にかかわる議論の現状は率直にいって新しい「縄文学」の創造に向けての胎動からは程遠く、むしろ「大きい・長い・多い」というきわめて歴史性のあいまいなキーワードを通して流される20m、500人、1500年、神殿、神官、王国といったSFもどきの言葉の荒唐無稽さを除けば従来の集落論や共同体論の成果をふまえた具体的かつ緻密な分析、斬新な問題提起や提言の類はまったくといってよいほど認められないところに、三内丸山をめぐる状況の深刻さ、問題の根の探さといったものがうきぼりにされていたことは明白である。

 岡田は、これまでの定説を覆す、あるいは縄文時代観の見直しを迫る具体的な発見例として、1巨大木柱痕や漆、ヒスイ加工に象徴される優れた建築・加工技術の存在、2クリやヒエなどの栽培技術の存在、3住居、墓、倉庫、やぐら、ゴミ捨て場、粘土採掘穴などの集落の各施設の計画的配置、4通常一集落が消費する量を超え土器や土偶などの大規模な生産、5ヒスイ、アスファルト、黒曜石などからうかがわれる他地域、遠方との交易、6幼児の埋葬からうかがわれる再生観念の存在、7大形の住居や墓地のあり方などからうかがわれる階層社会の可能性、などの問題をあげ、縄文時代が狩猟・採集・移動生活にもとづく平等社会であったかを再検討する時期に来ていたと主張している(130)。

 ここに列挙されている新「発見」といわれるものは、しかし、専門の研究者とはいえない片岡が正しく指摘しているように、「程度の差こそあれ、これまでに各地の遺跡ですでに発見」され、あるいは問題提起された、いわば周知の成果で占められている。佐々木自身だけをみても、原始的な農耕、計画的な集落配置と定住性、集落や地域を超えた分業と交換、幼児埋葬施設としての埋甕と妊娠呪術、個別的労働とその成果の個別的占有の形成を契機とした経済的・社会的な不均等性などの問題については、遠く1970年代前半にさかのぼる研究の歴史(131)があり、さらに、そのいくつかについては本稿でも何個所かにわたって触れている。こうした学史的事実を無視する新「発見」という言斐の陰には、自らが否定してみせたはずの過去の考古学的成果の数々をも「大きい・長い・多い」というキーワードを装う飾りに「加工」(132)して恥じない、縄文都市−文明論の二重・三重の欺瞞、虚構がある。

 「スクープで始まった古代史ブームが孕む危険」という副題を付けた1992年の向谷進の 『「高松塚」20年目の真実』は、佐賀県吉野ケ里の巨大環濠集落の発見でピークに達した感のある遺跡調査の「過剰報道」の問題を取り上げ、日本考古学の様々なゆがみを露呈することになったこうした「過剰報道」の遠因を1972年の奈良県明日香村高松塚古墳壁画をめぐる一連のスクープ騒動に求める考えを示している(133)。行政、マスメディア、研究者の三者が一体となった狂騒劇は、しかし、北の三内丸山、南の上野原と、今日も新たな主役、新たな舞台を求めてとどまることを知らない。

 発掘資料という、まさしく過去の遺産を食い尽くした後に訪れる考古学の冬の時代を支配するのは虚構の集落研究であり、それらを許しているわれわれの覆いがたい精神の怠惰である。

(63)「三内丸山遺跡特集−現れた「縄文都市」」『朝日新聞』1995年11月19日付朝刊

(64)「想像以上に豊かな生活 最古の都市、三内丸山」『朝日新聞』1995年12月9日付夕刊

(65)K・マルクス、F・エンゲルス、古在由重訳『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫

(66)佐々木藤雄「北の文明・南の文明(上)−虚構の中の縄文時代集落論」『異貌』16 1998

(67)「4500年前の巨大木柱 20メートル級の建造物か−吉野ケ里しのぐ可能性」『朝日新聞』1994年7月17日付朝刊

(68)「魚の見張り台」説などは論評以前の荒唐無稽な考えといわなければならない。

(69)川島苗次『アジアの民家』(前掲註59)

(70)安田喜憲「縄文文明の発見ーまとめにかえて」梅原猛・安田喜憲編『縄文文明の発見』1995

(71)山岸常人「文化財「復原」無用論−歴史学研究の観点から」(前掲註61)

(72)小林達雄「はしがき」小林達雄ほか『縄文時代の考古学』(前掲註44)

(73)復元された巨大木柱遺構をめぐる問題については、この他にも宮代栄一、佐原真らの批判がある。宮代栄一「進む古代建築の復元 なぜか背が伸びる」『朝日新聞』1996年7月25日付朝刊 佐原真「吉野ケ里と三内丸山」『月刊考古学ジャーナル』419 1997

(74)広瀬和雄ほか「シンポジウム 弥生の環濠都市と巨大神殿」広瀬和雄編『都市と神殿の誕生』1998

(75)都出比呂志「弥生環濠集落は都市にあらず」広瀬和雄編『都市と神殿の誕生』1998

(76)長岡市教育委員会『岩野原遺跡』1981

(77)佐々木藤雄「方形柱穴列と縄文時代の集落」(前掲註44)

(78)佐々木勝ほか『東北新幹線関係埋蔵文化財調査報告書7』岩手県教育委員会1980

(79)後期における大規模配石記念物の形成を縄文時代における「祖先祭祀」の成立とみる小杉康の考えは、以上の点からもまったく首肯しがたい。小杉康「縄文時代後半期における大規模配石記念物の成立」『駿台史学』93 1995

(80)1996年に奈良国立文化財研究所で行われた掘立柱建物をめぐるシンポジウムにおいて縄文時代の報告を担当した石井寛は、「縄文時代の掘立柱建物は多様な内容と機能をもっており、1つの機能に限定されるものではない」という基本的な認識のもとに貯蔵、居住、公共性、そして墓制との関わりについてそれぞれ言及し、大形の掘立柱建物については「巨視的にみると、中小規模の長方形住居址と系譜関係」が考えられること、中・小形の掘立柱建物については「高倉」を含めた貯蔵施設として機能した蓋然性が高いこと、などを明らかにしている。さらに石井は、西田遺跡を舞台にした佐々木勝の「もがり」説についても批判を試み、本遺跡の掘立柱建物群は柱穴の大きさからみても規模が大きく、恒常的な施設の可能性が強いこと、墓場群の分割単位と掘立柱建物群との対応関係に関しても問題点が残ることなどを指摘した上で、「縄文時代の習俗を民俗資料としての「高倉」と混同してはならないが、「高倉」に精神性の付与がさかんであるとの報告は、縄文時代の掘立柱建物の性格を検討するにあたっても、無視できない情報を提供している」とのべている。

 石井は、以上の提起にあたって近年の豊富な掘立柱建物資料に検討を加えることを忘れていないが、石井がここでのべている掘立柱建物の全体像は、すでに明らかなように、佐々木が前出の1984年の論文で描くことになった方形柱穴列の基本的なアウトラインとほとんど重なり合うものとして存在している。とりわけ、石井の「もがり」説批判が佐々木による1984年の「もがり」説批判とほとんど同内容であったことは佐々木の15年前の見通しの正しさを証明するものといっても間違いではないが、何故か本シンポジウムにおける石井は、この点には一切触れないまま、「「高倉」に精神性の付与がさかんであるとの報告」の単なる一例として佐々木の1984年の作業を註で取り上げている。今回のシンポジウムに立つ1989年の論文の中で「佐々木藤雄氏は「方形柱穴列をその形態や規模などから1〜3の各構とA〜Dの各型式に分類し、そのうちの比較的小形な1・2類の中にクラの機能をもつ例が含まれていた可能性を、また「長軸が10mをこえるD型の中でも特に3−b類を中心にみられる長大な方形柱穴列」の中に長方形大形住居と相通じる要素を指摘した」のであった。同時に「方形柱穴列と呼びならわしている遺構は、正確には、機能と系譜を異にするいくつかの遺構群の集合体としてあった」であろう予測も述べられている。まさに卓見とすべきであり、この種の遺構に対する論述として高く評価されねばならぬ」と当の石井がのべていたこととはまさしく対照的であるが、学史的な事実とプライオリティの尊重はいうまでもなく歴史科学としての考古学の基本的な原則である。日本考古学にもっとも欠けている相互的な論争の活性化を促し、それぞれの主体性と客観性を保証するためにも、以上の基本原則に対する立場には、論文形式とシンポジウム形式との間にどのような違いも存在しえないことが改めて確認されるべきであろう。石井寛「縄文集落と掘立柱建物跡」 『調査研究集録』6 1989 同「第1節 縄文集落からみた掘立柱建物跡」浅川滋雄編、 『先史日本の住居とその周辺』奈良国立文化財研究所シンポジウム報告 1998 佐々木藤雄「方形柱穴列と縄文時代の集落」(前掲註44)

(81)大貫静夫『東北アジアの考古学』世界の考古学9 1998

(82)佐々木藤雄「方形柱穴列と縄文時代の集落」(前掲註44) 同「和島集落論と考古学の新しい流れ−漂流する縄文時代集落論」(前掲註44)ほか

(83)アレン・テスタール、親沢憲訳「狩猟−採集民における食料貯蔵の意義」『現代思想』18ー12 1990 林謙作「階層とは何だろうか?」『展望考古学』1995 同「縄紋社会の資源利用・土地利用−「縄文都市論」批判」『考古学研究』44ー3 1997a 小林克「大規模集落と生活の安定」岡村道雄編『ここまでわかった日本の先史時代』1997ほか

(84)市原寿文「縄文時代の共同体をめぐって」 市原寿文ほか「討論」『考古学研究』6ー1 1959

(85)佐々木藤雄「和島集落論と考古学の新しい流れ−漂流する縄文時代集落論」(前掲註44)

(86)今村啓爾「群集貯蔵穴と打製石斧」『考古学と民族誌』1989 なお、佐々木の方形柱穴列に関する問題提起に対しては、「方形柱穴列と呼びならわしている遺構は、正確には、機能と系譜を異にするいくつかの遺構群の集合体としてあった」という佐々木の前出の記述を石井寛の言葉として誤って紹介した上で「石井氏の時期、地域を考慮した分析方法は評価できる」とした秋元信夫の迷解説(秋元信夫「論文批評 石井寛「縄文集落と掘立柱建物跡」」『縄文時代』1 1990)、「その性質・性格をひとつの解釈でしばりつける必要はなかろう」という村田文夫の迷批判(村田文夫『縄文集落』1985)などがあり、さらにそれらの孫引きにもとづく多くの誤解・混乱が今日に至るまでほとんど解消されることなく生きながらえていることについては、佐々木が繰り返し批判を試みている通りである。註80参照。

(87)岡田康博「日本最大の縄文集落″三内丸山遺跡〃−新しい「原日本人の発見」」梅原猛・安田喜憲編『縄文文明の発見−驚異の三内丸山遺跡』1995 小山修三「華やかなりし「北の王国」I縄文人の衣・食・住に迫る」梅原猛・安田喜憲編『縄文文明の発見−驚異の三内丸山遺跡』1995 安田喜憲「クリ林が支えた高度な文化−花粉が明らかにした遺跡の変遷」梅原猛・安田喜憲編『縄文文明の発見-驚異の三内丸山遺跡』1995

(88)坂詰仲男「日本原始農業試論」『考古学雑誌』42ー2 1956

(89)三内丸山遺跡におけるヒエ栽培の可能性についてはマスメディアも大きく紙面を割いて報道しているが本遺跡でその後に行われた自然科学分析作業では「イヌビエを含むキビ族のプラント・オパールの出現率はほんのわずか」であり、土壌分析でも「ヒエ属の種子」はまったく検出されなかったという結果が報告されている。縄文文明論の推進者の一人である安田喜憲自身も「三内丸山遺跡の調査では、確たる証拠のないまま、夢や可能性が一人歩きしている感」があることを率直に認め、「この点については、研究者として注意が必要であろう」とのべていることに注目したい。安田喜憲「縄文文明の発見−まとめにかえて」(前掲註70)

(90)小山修三「華やかなりし「北の王国」−縄文人の衣・食・住に迫る」(前掲註87)

(91)末木健「移動としての吹上パターン」『山梨県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告−北巨摩郡長坂・明野・韮崎地内』1975 石井寛「縄文時代における集団移動と地域組織」『調査研究集録』2 1977

(92)羽生淳子「住居址数からみた遺跡の規模」『考古学の世界』1989 同「縄文時代の集落研究と狩猟・採集民研究との接点」『物質文化』53 1990 土井義夫「「セトルメント・パターン」の再検討」『史館』20 1988 縄文中期集落研究グループ『シンポジウム縄文中期集落研究の新地平』1995 縄文集落研究グループ『シンポジウム縄文集落研究の新地平2』1998ほか

(93)岡田康博「縄文の郁 三内丸山遺跡」(前掲註2)

(94)小山修三「華やかなりし「北の王国」−縄文人の衣・食・住に迫る」(前掲註87)

(95)安田喜憲「縄文文明の発見−まとめにかえて」(前掲註70)

(96)西田正規「過熱する考古ジャーナリズムー三内丸山遺跡報道への疑問」(前掲註3)

(97)水野正好「縄文時代集落復原への基礎的操作」 (前掲註36)

(98)ふれいく同人会「水野正好氏の縄文時代集落論批判」『ふれいく』創刊号 1971 佐々木藤雄「水野集落論と弥生時代集落論−侵蝕される縄文時代集落論」『異貌』14、15 1994、1998

(99)大村裕「「縄文時代像の転換」と歴史教育」(前掲註3)

(100)小山修三編「原始・古代4 縄文人の家族生活」『週刊朝日百科 日本の歴史』37 1986

(101)小山修三『縄文時代−コンピュータ考古学による復元』中公新書 1984

(102)しかも小山修三は、前述したように1984年の『縄文時代−コンピュータ考古学による復元』 の140頁では後者の与助尾根の終末期の集落の総人口を約90人、住居数を15軒として紹介する一方、何故か同書の168頁では水野正好の群別作業を援用する形で一時期の本集落の住居数を12軒としている。到底、同一人物とは思われない発言の大きなふれであったといわなければならない。小山修三『縄文時代−コンピュータ考古学による復元』(前掲註101)

(103)安田喜憲「縄文文明の発見−まとめにかえて」(前掲註70)

(104)小山修三「華やかなりし「北の王国」−縄文人の衣・食・住に迫る」(前掲註87)

(105)森本哲郎「世界文明史の再考を促す」(前掲註1)

(106)小林達雄「はしがき」(前掲註72)

(107)鈴木正博「1996年の考古学界の動向1縄紋時代(関東・中部)」(前掲註3)

(108)羽生淳子の小規模集落論が近年の三内丸山をめぐる諸々の議論に対してほとんど無力にみえるのは、羽生の作業が集落の内的構成や質に対する厳密な分析視点を欠落させたまま、皮相的な論理と観察からことさら縄文集落の「小さい・短い・少ない」側面を強調してきた当然のツケというべきであり、この点に関する限り、羽生の拠って立つべき根は「大さい・長い・多い」にも通じるものがあったといっても誤りではない。

(109)櫻田隆「秋田県池内遺跡」『日本考古学協会1997年度大会研究発表要旨』1997

(110)谷口康浩「縄文時代集落論の争点」『国学院大学考古学資料館紀要』14 1998 なお、前号註56の文献名を「縄文時代早期撚糸文期における集落の類型と安定性」としたのは「縄文時代集落論の争点」の誤りであり、訂正したい。

(111)佐々木藤雄「和島集落論と考古学の新しい流れ−漂流する縄文時代集落論」(前掲註44) 谷口康浩環状集落形成論−縄文時代中期集落の分析を中心として」『古代文化』50ー41998

(112)林謙作「縄紋巨大施設の意味」『縄文と弥生』1997

(113)佐々木藤雄「縄文時代の親族構造」『異貌』4 1983 同「縄文時代の家族構成とその性格−姥山遺跡B9号住居址内遺棄人骨資料の再評価を中心として」(前掲註30) 同「水野集落論と弥生時代集落論−侵蝕される縄文時代集落論」(前掲註翌同「縄文時代の土器分布圏と家族・親族・部族」(前掲註37) 谷口康浩「縄文時代集落論の争点」 (前掲註110) 山本典幸「縄文時代の出自と婚後居住ー五領ケ台式土器の分析を通して」『先史考古学論集』5 1996ほか

(114)岡田康博「東日本の縄文文化」『季刊考古学』64 1998

(115)菅谷道保「縄文時代特殊住居論批判1「大形住居」研究の展開のために」『東京大学文学部考古学研究室紀要』6 1987

(116)武藤康弘「縄文時代前・中期の長方形大型住居の研究」『住の考古学』1997

(117)武藤康弘「縄文時代の大型住居−長方形大型住居の共時的通時的分析」『縄文式生活構造』1998

(118)武藤康弘「縄文時代の大型住居−長方形大型住居の共時的通時的分析」(前掲註117)

(119)佐々木藤雄「縄文時代の家族構成とその性格−姥山遺跡B9号住居址内遺棄人骨資料の再評価を中心として」(前掲註30) 同「和島集落論と考古学の新しい流れ−漂流する縄文時代集落論」(前掲註44)

(120)内部に間仕切りや複数の炉を有する住居の存在が複数の家族の居住を示す可能性が強いとすれば、それは近年の小規模集落論の中にみられる、縄文集落の時期の同時存在住居数は最終的には1軒(1家族)にまで分解されるという考えとは根本的に対立する点に注意したい。この点については、小規模集落論の側はもちろん、小規模集落論を批判する側も、何故かほとんど触れていない。註92参照。

(121)小山修三 小山修三編「原始・古代4 縄文人の家族生活」(前掲註100) なお、真脇遺跡については、生業・居住システムの時間的変化とイルカの捕獲活動を民族・民俗モデルをも援用しつつ検討し、それらの構造的な把握を通して近隣集落を含めた当該期の共同作業の実態に接近しようとした山本典幸の試みがある。三内丸山遺跡に欠けているのは、こうした地に足の付いた緻密な分析作業の実践である。山本典幸「石川県真脇遺跡の居住形態とイルカ漁」『先史考古学論集』6 1997

(122)佐々木藤雄「縄文時代の土器分布圏と家族・親族・部族」(前掲註37)

(123)安田喜憲「縄文文明の発見ーまとめにかえて」(前掲註70)

(124)安田喜憲「縄文文明の発見−まとめにかえて」(前掲註70)

(125)三内丸山遺跡では2列に並んだ墓場の分布状態などから双分的な社会組織の存在を想定する見解も呈示されている。資料や紙数の制約もあり、本稿ではその是非にまで言及することはできないが、縄文時代における双分制や双分組織をめぐるこれまでの議論は、厳密な概念規定と縄文社会の実体論的な分析を欠如した、きわめて表面的な次元にとどまるものが多く、図形的・形象的な特徴をただちに二項対立へと短格化しがちであった作業がこの問題の創造的な発展を長年にわたって阻害し、数々の奇形的な双分、あるいは三分、四分組織論を生み出しつづけてきたことについては、佐々木の一連の批判がある。佐々木藤雄「縄文時代の親族構造」(前掲註113) 同「水野集落論と弥生時代集落論−侵蝕される縄文時代集落論」(前掲註98) ほか

(126)安斉正人「縄紋時代後期の「猟漁民」1道具・活動・ 生態」『縄文式生活構造』1998

(127)片岡正人「三内丸山遺跡の虚実」『月刊考古学ジャーナル』419 1997

(128)安田喜憲「縄文文明の発見−まとめにかえて」(前掲註70)                                     

(129)岡田康博「日本最大の縄文集落″三内丸山遺跡”ー新しい「原日本人の発見」」(前掲註87)

(130)岡田康博「日本最大の縄文集落″三内丸山遺跡”ー新しい「原日本人の発見」」(前掲註87)

(131)佐々木藤雄『原始共同体論序説』(前掲註44) 同「原始共同体論の陥穿」『異貌』1 1974 「“縄文時代集落論”の現段階」『異貌』2 1975 同「埋甕論ノート」『異貌』3 1975 加えれば、縄文時代における「階層化社会」の問題については、先の安斎正人の指摘にもあるように、渡辺仁による一連の社会生態学的アプローチがあったことは周知の事実である。渡辺仁『縄紋式階層化社会』1990ほか       

(132)西田正規「過熱する考古ジャーナリスムー三内丸山遺跡報道への疑問」(前掲註3)

(133)剛谷進「「高松塚」20年目の真実」『文藝春秋』70 1992 


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