岡本 孝之
1 はじめに
弥生文化の環壕集落については、いくつかの疑問がある。
その最初の疑問は、弥生前期に西日本一帯に広がり、中期に東日本の中部・関東南部に拡大するが、東北には存在しないことである。このことは東北に弥生文化は存在したのかという根本問題であるはずだが、多くの日本人考古学者は東北にも弥生文化はあるとして検討されたことがない。秋出県地蔵田B遺跡の環状に巡らせた柵列のある集落を、西日本の環壕集落と同一視しようとした。これはすでに指摘されているようにおかしい。
そして、東日本の環壕集落を西からみて防御集落、防衛集落としか位置づけない。西からきた弥生人どうしの争いの防御集落としか考えない。争いは弥生人どうしの間にしか存在しないと考えているかのようである。この一面的な位置づけに疑問がある。その極端な見解の一つとして、関東の弥生文化は武器を発達させない、ほとんど出土しないという所見から争いを指向せず、平和な社会であったとする意見がある。これは誤った平和主義ともいうべきもので、文化の本質を誤解している。
第三の疑問は、環壕の構造で溝・壕の外側に土塁が構築されていると報告されていることである。久世辰男がすでに疑問を発しているように、これは近世の賊や中世の城郭から得られている常識に大きくずれている。溝・壕・掘の内側に土塁は構築されるのがふつうである。溝と土塁の関係が逆転しているのであるから、発想を逆転させる必要がある。
2 茨城県以北に存在しないことの意味
環壕集落は、日本海側は新潟県まで、太平洋側は千葉県まで分布し、内陸は長野県、群馬県まで発見される(岡本 1992)。太平洋側では、中期中葉の池上式土器にともなうものが埼玉県池上遺跡で発見されており、後半の宮ノ台式土器にともなう環壕集落は爆発的に増大する。しかし、宮ノ台式土器が基本的には現在の利根川を越えないのと同様に、環壕集落も北関東の栃木県、茨城県からは発見されない。茨城県ひたちなか市東中根遺跡で指摘されている溝については再検討の必要を認める。
土器の様式構造だけでなく、墓制においても方形周溝墓が利根川以北から発見されないことも重要である。金属器の出土も著しく低い。利根川を挟んだ南北の地域は、著しい相違を示す。これは弥生文化内の地域差として認識できる範囲を越えているとみるべきである。南に弥生文化が想定されるならば、北には大森文化から伝統文化の存在を考えるべきなのである。
佐原真、工楽善通らによって弥生前期の環壕集落として注目された群馬県注連引原2遺跡(安中市教育委員会1988、佐原他1988)の環壕は、その後の再検討により古代の牧にともなう溝と土塁と判断されるにいたった(大工原 1994)。このことは単なる時期決定の変更レベルの問題にとどまらず、文化認識の視座にも重要な問題を提起している。注連引原2遺跡の遺構も溝の外側に土塁を平行させるものである。
また、弥生前期とされた秋田県地蔵田B遺跡の環柵集落の起源も、弥生文化ではなく、大森文化であるという見通し(岡本 1993)は、長野県松原遺跡、福島県南諏訪原遺跡、秋田県上新城中学校遺跡などの大森時代の柵をともなう集楽遺跡のあいつぐ発見によって証明された。東北に弥生文化が展開したとする有力な根拠は潰えたばかりでなく、大森文化の伝統性こそが確認されたのである(石川 1994、岡村 1997)。
このように弥生文化前期の関東、東北の環壕集落の存在は否定され、北関東以北には古墳時代になって拡大することが改めて認識されなければならない。
3 外土塁環壕の意味
私自身は、横浜市そとごう遺跡の環壕を発見したことはあるが、環壕を発掘したことはない。横浜市大塚遺跡(第1図)の環壕の外側に盛土があることは、早くから指摘されていたが、そのことの疑問は整理されていない(武井 1991)。城郭の専門家である西ケ谷恭弘は、第2図の復元図を作成しているが、外土塁の意味を問うていないのはおかしい(西ケ谷 1992)。吉野ケ里適跡の復元図(第3図、国立歴史民俗博物館 1991)のおかしさを指摘した久世辰男の疑問は評価できるが、外土塁の存在を否定することになってしまった(久世 1993)。
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環壕の外土塁の存在は単純に考えておかしい。防衛集落ならば、壕の内側に盛土し、柵を構築するはずである。大塚遺跡では国史跡となって歴史公園として一部が復元され、柵が巡らされているが、防衛・防御性において劣るのではないかと思う。また守るという意識において著しく劣るという観念に捉われはしなかったのだろうか
これは防衛の観点とは逆転している。そうならば防衛的性格ではなく、逆転した機能が求められていたと考えるべきである。それは集落の内側の人間を外側に出さないための施設ではないのだろうか。内側に閉じこめた、押し込めた人々を逃亡させないための施設ではないか。
環壕集落は、捕虜収容所としての性格もあったのではないか。
このような認識は、角川書店の『新版古代の日本』第7巻、中部編の弥生時代の項(岡本 1992)をまとめたときに、下書き原稿には書いてみたものの、幾人かの友人に意見を求めたところ、そこまではという指摘により削除していた。
環壕集落の性格は、ここまで露骨ではないとしても在地系弥生人(あるいは先住系弥生人) に対して、新出系、新外米系弥生人が再編成させるために有効に機能した側面があるのではないだろうか。
4 古代・中世の牧の溝と土塁
古代・中世の牧に注目したい。その周辺に構築された構の外側に盛土が認められる。それは牧の内側に放牧される馬を逃亡させないための施設であり、溝の幅と外側の土塁の高さは、馬の跳躍力の限界を越えた規模が求められるという。
この類似は、弥生時代の環壕集落の壕と土塁の関係を知る上で示唆的である。群馬県注連引原2遺跡で溝の年代が弥生時代から平安時代に変更されたことは、さらに暗示するものが多い (大工原 1994)
5 東北北部の環壕集落
弥生時代における南関東までの環壕集落は、古墳時代になると古墳や方形周溝墓とともに宮城県付近まで分布が拡大する。土器も土師器となって従来の縄文ある土器とは大きく異なるものとなる。
そして、最近になって秋田県(高橋 1995)、岩手県(高橋他 1995)、青森県(三浦 1995、畠山他 1996)において平安時代の環壕集落が高地性遺跡とともに確認された。その性格については蝦夷の問題と絡んで議論され、蝦夷も部族社会まで発展した証拠と考えられている(工藤 1995、1998)。時代をおって東に、北に分布が移動することに注意したい。
この中で特に注目されるのは、第4図に示した青森県浪岡町高屋敷館遺跡(畠山他 1996)であり、壕の外側に土塁が巡る構造を示しているのである。この遺跡の評価については、一部に蝦夷の捕虜収容所ではないかとする意見が述べられていると教示されたが、まだ確認していない。
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6 環壕集落内の異系統の存在
神奈川県藤沢市の慶応義塾湘南藤沢キャンパス内遺跡(岡本他 1992)で古墳時代前期の集落を調査した際に発見された北関東系の土器と住居跡に注目したい(第5図)。この集落も環壕集落であり、その中央部に位置する第27号住居跡から茨城県南部に分布する上稲吉式土器が出土して注目されたが、その出土した住居跡の形態が南関東に一般的に存在する隅丸方形あるいは隅丸長方形ではなく、細長い長方形となるものであった。その形態は飯塚博和の指摘するように北関東に多いものである(飯塚 1983〜1986)。
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この土器と住居跡の性格については、報告書作成の時点では示唆するにとどめたが、南関東古墳文化勢力が北関東に及んで、そこから連れてこられた北関東の人の痕跡ではないかと考えている(岡本 1994)。それは単純な文化交流の成果として顕現したのではなく、暴力的な力関係のもとの結果であったと考えたい。
時代は下るが、蝦夷の土器は近畿中央部や四国の愛媛県まで運ばれており、蝦夷の虜囚、浮囚との関連が指摘されている。すでに指摘したことであるが、蕨手刀の分布論については、近畿から東北に広がったとする佐原真の見解があるが(佐原 1985)、東北独自に成立したものが近畿に持ち運ばれたとするほうが正解と思われる(岡本 1997)。また、蝦夷が浮囚として連れてこられたところは、各国の国府や郡家に近接して存在することの多い別所や散所であるという菊地山哉や八切止夫の指摘があるが、それを考古学的に解明する必要がある。
新納泉や都出比呂志の指摘する頭椎大刀(新納 1989、都出 1998)を、畿内の政権中枢が東国の首長層を傘下に入れるため下賜した大刀と位置づける考え方についても反論できるのではないかと思う。その出土分布が東日本に偏り、近畿中央部できわめて少ないならば、これらの大刀は東国で生産されたものと位置づけるべきものではないか。
7 環壕集落からべトナム戦略村へ
近年の耶馬台国近畿説の盛行は、弥生時代の年代論が従来のものから大さく繰りあがったことに起因している。しかし、このことは逆にこれまでの近畿説の根拠や説明は、すべて成立しなかったということを示しているのではないか。自らの批判的検討がないことは恐ろしい。環壕集落は日本列島を北上し、弥生時代だけでなく、古墳時代にも平安時代にも存在した。虜囚のための施設と考える人も現われた。単に敵対者だけでなく、身内の敵、意見を異にする者などを再編成、収容する施設と位置づけることもできる。その系譜は、現在まで継続しており、近年ではべトナム戦争のアメリカ軍が組織した戦略村なるものに存在したとみることができる。そして、べトナムでアメリカは敗退し、逆転の歴史が始まっている。一方、平安時代の東北北部での環壕集落、高地性遺跡を必要とした社会は成長しなかった。これは大和勢力に敗退した結果としてのみ考えるのではなく、蝦夷の内部にもそれを必要としない主体的勢力が存在した結果としての可能性を考えてみたい。環壕を必要としない社会への逆転の運動は、日本列島においてはこの2000年来継続してあったということを確信したい。これを考古学的に解明するにはどのような方法が必要であろうか。
謝辞
本稿作成については、直接的には、昨年夏に久世辰男氏と木村幾太郎氏との意見交換を行い、それを契機に捕虜収容所説を早急にまとめておこうと思いついたことによる。成田誠治氏、伊丹徹氏と両氏に感謝申し上げたい。
参考文献
飯塚博和 1983・1984・1986 「北関東地方弥生時代後期の竪穴住居跡(1)〜(3)」『異貌』10・11・12
石川日出志 1994 「東日本の大陸系磨製石器−木工具と穂摘み貝−」『考古学研究』41−2
岡村道雄 1997 「縄文時代の環濠、溝、柵列」『考古学ジャーナル』412
岡本孝之 1992 「攻める弥生・退く縄文」『新版古代の日本』7 中部編
岡本孝之 1992 『湘南藤沢キャンパス内遺跡』4
岡本孝之 1993 「桃と栗 中部・関東弥生文化における弥生文化と大森(縄文)文化の要素」『異貌』13
岡本孝之 1994 「南関東弥生文化における北からの土器 −東海難民論批判−」『西相模考古』3
岡本孝之 1997 「西馬音内型石器論」『西相模考古』6
久世辰男 1993 「弥生環濠集落の環濠外土塁についての疑問」『利根川』14
工藤雅樹 1995 「北日本の平安時代環濠集落・高地性集落」『考古学ジャーナル』387
工藤雅樹 1995 「子飼沢山遺跡発掘調査の概要」『考古学ジャーナル』388
工藤雅樹 1998 『古代蝦夷の考古学』
久保 泰・森 広樹 1995 「渡島半島南部の擦文時代の防御集落」『考古学ジャーナル』387
佐原 真 1985 「分布論」『岩波講座日本考古学』1
佐原 真・工楽善通編 1989 『探訪弥生の遺跡』畿内東日本編
大工原 豊 1994「奈良・平安時代の 「牧」と推定される遺構群について」『中野布地区遺跡群』
高橋 学 1995 「秋田県における平安時代の防御集落」『考古学ジャーナル』387
高橋輿右衛門・室野秀文・本堂寿一 1995 「岩手県における平安時代の防御性集落について」『考古学ジャーナル』387
武井則道 1991「環壕の機能と性格」『大塚遺跡』港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告
都出比呂志 1998 『古代国家の胎動』
新納 泉 1989 「王と王との交渉」『古墳時代の王と民衆』
西ケ谷恭弘 1992 『復元図譜 日本の城』
畠山 昇・太田原慶子 1996 「平安期の大規模な環濠集落」『季刊考古学』54
三浦圭介 1995 「青森県における古代末期の防御性集落」『考古学ジャーナル』387
秋田市教育委員会 1986 『秋田市地蔵田B遺跡』
秋田市教育委員会 1992 『秋田市上新城中学校遺跡』
安中市教育委員会 1988 『注連引原2遺跡』
安中市教育委員会 1994『中野谷地区遺跡群』
国立歴史民俗博物館 1991 『邪馬台国時代の東日本』
長野県埋蔵文化財センター 1990 「松原遺跡」『長野県埋蔵文化財センター年報』7
福島市教育委員会 1991『南諏訪原遺跡』埋蔵文化財研究会他 1988 『弥生時代の環濠集落をめぐる諸問題』
追記
脱稿後の2月28日に西相模考古学研究会で横浜市歴史博物館の大塚遺跡などの資料を見学した。その中で興味深い土器を見出した。
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その第1は、境田遺跡のY3号住居址出土の21の土器である(第6図1 伊藤・坂本 1979)。「21は口縁の一部を欠損した土器である。口縁はやや開き、頸部でくびれて胴上位にある最大径に移行し、それから下部は直線的に底部に達している。器高28.7cm、最大径は口縁と胴上部にあり、23.3cmを測る。文様は口唇とその内側と頸部に単節斜縄文を施し頸部の縄文帯の下部にはS字状結節文があり、文様帯を区画している。器面は刷毛目の後にへラ調整でよく研磨しているが、二次的加熱のため剥落が多く、煤も付着している。色調は上半部が黒褐色、下半部が褐色である。炊成はほぼ良好であるが、胎土には砂拉を含んでいる。」「Y3号住居址21は南関東にはほとんどみることのできない土器であり、北関東ないし中部地方の土器ではないかと思われるが残念ながら類例を知らない。」
この土器は安藤広道によって宮ノ台式土器の5期前半に位置づけられる土器群(安藤 1990)と伴出しており、集落は大塚遺跡の対岸に位置する小規模集落とされている(安藤 1991)。この上器は東北南部か。
その第2は、大塚遺跡の環壕出土土器である(横浜市ふるさと歴史財団 1994)。
第20図44の壷(第6図3)「44は胴部と口縁部の破片を一部欠くが、ほぼ完形に復する。口径7cm、胴径11cm、高さ19・5cmの小形太頸壺で、頸部に縦位の刷毛目を残し、胴上半部に無節の縄文Rを3〜4段重ねている。表面は黒褐色を呈する。下部出土。」
第44図5(第6図2)「5は脚部である。上部が失われているため器形は不明だが、台付き鉢か高杯だろう。底径11cm、現存高8・5cmを測る。体部から緩やかにカーブして底部で大きく外反し、さらに鋭く内屈している。脚の裾部分には箆描の沈線によって長方形区画が描かれている。配置から見て4単位付されるものだろう。色調は良く胎土も竪緻である。脚部分は粗い刷毛整形が施されており、上部はへラナデされている。」
第54図60の甕(第6図5)「60は底部を欠く、口径22.8cm、残存高20・3cmを測る。器形は他のものと異なり、口縁部は反り返るように外反し、胴中位が口縁部より大きく膨らんでいる。胴部の最大径は23・8cmである。口唇部は肥厚しており、外側に指頭による軽いひねりが、さらにその上部に指頭押捺が上方から加えられている。刷毛目は太く感覚がやや粗いもので、外面は口唇部直下を除き、ほぼ全面に施されている。内面は頸部以下がナデ整形となる。」
また、第19図30の壷(第6図4)は石川日出志によって栃木県の御新出式土器の搬入品とされた土器である(石川 1997)。他に中部高地の栗林系と思われる土器もある。第39図22の甕(第6図6)などで、他に壷のあることを教示された。これらの土器の存在は、大塚遺跡とその周辺の環壕集落の性格を考える上で重要な資料になるものと思う。横浜市歴史博物館の安藤広道氏と長野県埋蔵文化財センターの青木山男氏、西相模考古学研究会の諸氏に感謝申し上げたい。
安藤広道 1990 「神奈川県下末吉台地における宮ノ台式土器の細分」『古代文化』42−6・7
安藤広道 1991「弥生時代集落群の動態『調査研究集録』8
石川日出志 1997 「御新出式土器をめぐって」『弥生土器シンポジウム南関東の弥生土器』
伊藤郭・坂本彰 1979 「境田遺跡の調査」『調査研究集録』4
横浜市ふるさと歴史財団 1994『大塚遺跡 遺物編』
本稿は「異貌」第16号 1998年9月 共同体研究に掲載されたものです。執筆者の岡本孝之さんには、掲載を許可していただきました。この場をお借りして厚くお礼申し上げます。