自壊する考古学・成長しない集落論

 ―「日本最古の石器発掘ねつ造」と『縄文の生活誌』・『国民の歴史』を結ぶもの―
(ダイジェスト版)
佐 々 木 藤 雄


 この論文は「土曜考古」第25号(2001年5月)に掲載されたものです。筆者の佐々木藤雄さん及び発行元の土曜考古研究会事務局と公開について交渉を進めてきました。この度、関係者から条件付きながらから了承をいただき、web上で公開できる運びとなりました。ご快諾くださいました関係者の皆様方に厚くお礼申し上げます。なお、原論文は縦書きのため漢数字を使用していますが、変換ミスを防ぐためそのままにしてあります。また、機種依存文字は適宜、変更してあります。ご了承ください。なお、論文の完全版が掲載されている「土曜考古」第25号は頒価2500円、送料380円で好評発売中です。ご希望の方は現金書留で下記までお申し込みください。
 郵便番号344-0061 埼玉県春日部市粕壁6918-3-1-206 利根川章彦様方 土曜考古研究会 電話048-754-5765 バックナンバーについては、来る10月に岩手県盛岡市で開かれる日本考古学協会秋季大会の図書交換会会場でも販売予定ですので、どうぞご利用ください。



 新しい世紀を迎えた日本考古学界を一つの亡霊が徘徊している。「ローム真理教」という名の亡霊がそれである。

I.ミレニアムの考古学と「ローム真理教」
 「ただし、この世紀の大発見にはいくつかの疑問符もつきまとっていた。原人の住居跡とされた柱穴は一軒あたり五個、二軒で合計一〇個が検出されていた。それぞれの直径は一〇〜二〇センチ、深さ一五センチほどであり、六〇〜一〇〇センチほどの間隔をおきながら、五角形状の配置をみせていたことが二軒とも報告されている。しかし、これらの柱穴が発見された多摩ローム層は、上部を大きく侵食され、地下わずか一メートルから数十センチという位置にあった。尾田蒔丘陵における最大二〇メートルというローム層の堆積とは比較にならない浅さであり、生活面をパックするように堆積していたといわれる軽石層の分布も、公表された写真をみる限りでは、肝心の建物跡付近で急速に不明瞭になるように思われた。しかも、五角形に配列されたといわれる柱穴の分布も、私には少しも整然としているようには見えなかった。むしろ、同じく公表された図面を見る限りでは、調査者が柱穴の跡と主張するこれらのピット(小穴)はただ漠然と一カ所に集中しており、私たちが発掘調査でしばしば遭遇する立木などの根っこの跡とあまり変わらないというのが率直な印象であった。」(46〜47頁)
 「ともあれ、秩父原人の住居跡を競って大きく報道することになったマスコミの中には、調査者を「ゴッドハンド」の持ち主と讃え、遺跡の発見を神業扱いする写真週刊誌まであらわれた。まるであの「徳川埋蔵金発掘」や、超能力者による一連の「霊視」騒動にも似たマスコミのフィーバーぶりであった。小鹿坂遺跡から発見された石器は、その後、江戸東京博物館の「新発見考古速報展」などで展示され、私も実見する機会を得た。マスコミの報道もあり、石器のまわりは多くの見学者で賑わっていた。展示ケースのガラス越しに垣間みた石器の輪郭は私たちがふだん見慣れている後期旧石器よりもシャープであり、五〇万年という気の遠くなるような年月を経過した割には風化も古色の度合いもそれほどではないというのがなんとも意外であった。これが古美術品であれば、「ちょっといけませんネー」という骨董屋のおやじの声が聞こえてくるようであった。「石器の周囲にある礫は、たいてい腐ってたりするけど、石器は腐らない。生きているんです。土もほとんど石器には付着しないから、掘り出すときは『ふわっ』と軽く取れる」 私の乏しい発掘体験からいっても、本当にそんなことがありうるのだろうか。ある月刊誌に掲載された件のゴッドハンド氏の言葉が妙に心にひっかかった。」(48〜49頁)
 長々しい引用となったが、以上は前期旧石器捏造事件発覚前月の2000年10月半ば、祥伝社のノンブック『私が掘った東京の考古遺跡』の第1章に書いた、ゴッドハンド氏こと藤村新一の発見になる「前期旧石器」に対する私の疑問・批判の内容である(1)。
 本書が発刊されたのは11月25日であり、毎日新聞のスクープ(2)という形で明らかになった事件の第一報には残念ながら間に合うことができなかった。また、本書における批判や疑問の対象となったのは、この年の2月に発掘調査が行われた埼玉県秩父市小鹿坂遺跡出土の「秩父原人」の住居跡や石器埋納遺構の問題であり、今回の捏造事件の舞台となった宮城県築舘町上高森、北海道新十津川町総進不動坂両遺跡の問題については直接言及するまでには至っていないが、藤村による「日本最古の石器発掘ねつ造」事件に対する私の基本的な立場は、ほぼこの文章の中に集約されているといっていい。
 ゴッドハンド氏藤村による一連の前期旧石器発見劇については、それを「神の手」による奇跡と信じて疑わない多くの研究者やマスコミの称賛の声がある一方、少なからぬ研究者が検出された「旧石器」や出土層位のあり方に拭いがたい疑問、不信感を抱いていたことは周知の事実である(3)。未明の遺跡近くで起きた藤村の愛車の謎の脱輪事故をはじめとして、前期旧石器発掘をめぐる藤村の不可解な行動の数々はかねてより注目されていたところであり、その延長線上でひそかにささやかれていた石器捏造行為と今回の毎日新聞のスクープ写真(ビデオ)との間のあまりにも見事な一致に、かえって大きな驚きを感じられた方も多いものと思われる。
 そうした意味では、藤村は、よくも悪くも観衆が期待した通りの「神の手」を忠実に演じ、最後にはその役に殉じた不世出の道化役者、日本考古学が生んだ最大の負のスターであり、役柄のもつ社会的な影響力やカリスマ性の大きさからいえば、かつての宜保愛子をも遥かに凌駕する霊能者、エセ超能力者であったといっても過言ではない。「発掘の神様」藤村に洗脳され、かれのゴッドハンドに酔いしれた多くの研究者が、今、自らを「オーム真理教」ならぬ「ローム真理教」の哀れな信徒になぞらえ、揶揄する根拠は十二分にあったということができるだろう。

II.予感されていた捏造事件の発覚
 しかし、毎日新聞のスクープ記事による捏造事件発覚の前月、この大スターの寿命も決して長くはないことを示す象徴的な出来事がほかならぬ藤村自身によって演じられていたことに、はたして何人の人が気づいたであろうか。それが、私がノンブックにも引用した、講談社の月刊誌『現代』11月号(10月5日発売)に掲載された「私には50万年前の地形が見える」という藤村のインタビュー記事である(4)。
 藤村はのべている。「石器の周囲にある礫は、たいてい腐ってたりするけど、石器は腐らない。生きているんです。土もほとんど石器には付着しないから、掘り出すときは『ふわっ』と軽く取れる」。詳細は同書に譲るが、一体、一度でも旧石器時代の遺跡の調査に携わったことのある者であれば、ローム層中に自然にパックされた石器はわずか数万年前の後期旧石器でさえ決して「『ふわっ』と軽く取れる」ものではないことを、自らの心と体にはっきりとした記憶として刻まれていることと思われる。まして、数十万年前という長期間にわたってパックされてきた前期旧石器に土がほとんど付着しないまま、「『ふわっ』と軽く取れる」とは、一体、どういうことなのか。
 心のやましい人間ほどしばしば饒舌となり、必要以上に自分の行動を正当化しようとするといわれる。先に引用した藤村の言葉こそは、汚れた「神の手」による捏造石器の不自然さをもっとも知る者がその矛盾を取り繕い、アリバイ証明を試みようとして、かえって自らの傷を深めてしまった典型的な例であり、そこに、表面上の強弁とは裏腹な藤村自身の犯罪者心理や弱気、焦りが見え隠れしていたことは間違いない。また私自身についていえば、石器や石器埋納遺構、住居跡の資料的信憑性にもまして、藤村の「神の手」に対するひそかな「疑問」を「確信」へと決定的に高める役割を果たしてくれた、最大の「恩人」でもあったということができるだろう。
 毎日新聞によるスクープ記事のすでに1カ月前、藤村による前期旧石器捏造は、実はほかならぬかれ自身の手によって破綻に至る構図をあらわにしつつあったのである。(中略)

III.真の教祖ははたして誰か
 ところで、現代11月号「私には50万年前の地形が見える」は、私たちにとって決して看過できないもう一つの重要な問題を提起していた。秩父市小鹿坂遺跡発見の゛秩父原人の住居跡″と石器埋納遺構からうかがわれる貯蔵の計画性をもとに、後期旧石器時代はおろか、前期旧石器時代にまでさかのぼる半定住的な生活の可能性が藤村によってはっきりと指摘されていたことである。単なる前期旧石器の存否やその年代的上限という次元を超えて、ここには従来の前期旧石器論争の変質化という問題が明らかに内包されていたことに注意を払わなければならない。
 しかし、周知のように、後続する縄文時代集落論などに比べれば旧石器時代をめぐる集落研究はほとんど緒についたばかりといっても過言ではなく、当該期の「ムラ」の実態については、後期旧石器時代段階についてさえまだまだ多くの謎が残されている。しかも、藤村が指摘する貯蔵の計画性や半定住的な生活の問題は、縄文時代集落論においても依然としてその初源段階の評価にかかわる重要な分析課題であり、旧石器時代段階にクリアーされた過去の問題では決してないのである。まして石器埋納遺構と呼ばれる貯蔵施設は、遺跡数が圧倒的に多い後期旧石器時代でも、なぜかほとんど発見例がないことはよく知られている通りである。同じくノンブックでも批判した通り、「立ち木の根っこの跡とほとんど変わらないような゛住居跡″を根拠に「前期旧石器のムラ」を云々するのは、あまりにも危険であり、科学としての考古学の自殺行為にもつながりかねない」(57〜58頁)ことはあまりにも自明である。単なる無知の故か、それとも少々図に乗り過ぎたのかどうかはさておき、居住形態や生産物の貯蔵にかかわる縄文時代集落論の長年にわたる議論の蓄積を無視した暴論であるというほかはない。
 それにしても、従来の前期旧石器調査の枠組みを大胆に越えようとするかのような藤村による以上の発言は、はたしてかれ自身のまったくの個人的な見解であるのか。それとも、藤村が副所長を務めていた東北旧石器文化研究所全体を代表した見解であったのか。仮に後者であったとすれば、今回の捏造劇に東北旧石器文化研究所がまったく関知していなかったと考えることは非常に難しい。たとえは悪いが、藤村は単なる使いっ走りの実行犯に過ぎず、その背後には、全体的な筋書きに沿って藤村をも洗脳し、捏造を教唆した影の脚本家や演出家、いわば「ローム真理教」の真の教祖が存在してはいなかったのかどうか。事件発覚直後より今回の捏造の原因を周囲の過度の期待に対する藤村自身のプレッシャーに求めたり、捏造の舞台となった遺跡を上高森・総進不動坂の二つの遺跡だけに限定しようとする動きが盛んにみられるが、一部のためにする議論はさておき、こうした試みがいかに愚かで思慮に欠けたものであるかはあまりにも明白である。(中略)
 吉村作治と宜保愛子コンビによるでたらめ極まりないエジプト霊視行(5)を引き合いに出すまでもなく、考古学的な調査に超能力者は不要である。そこに古代人の確かな生活がある限り、たとえ「神の手」をもたない誰が掘ろうとも、等しくその足跡に触れ、感動を共有することができる。それが本来の考古学の姿であり、私たちの出発点であったはずである。ましてや、発掘された成果は決して発掘を行った個人の勲章になりうるものではない。私たちの勲章は、いうまでもなく発掘後の地道な分析や検証作業の成果に対してこそ与えられるべきものである。そうした基本原則をあいまいにしたまま、考古学の芸能番組化に血道を上げ、発掘された遺構・遺物の華々しさを自らの勲章と錯覚する無内容な「ヴィジュュアル系考古学者」の成立を許してきたところに、いわば「マッチ・ポンプ」にも似た今回のお粗末な自作自演劇、捏造劇の深い根は用意されていたといえるだろう。


IV.歴史を忘れた考古学
 「十一月五日、藤村新一氏が、十月と九月に宮城県築館町上高森遺跡と北海道新十津川町総進不動坂遺跡において、遺構を工作・捏造したとの報道がありました。私自身、大変驚くとともに困惑を禁じ得ません。(中略)・・・いままでの数々の発掘成果、およびこれまでの同氏の業績は、疑いのないものと信じていますが、今後の調査の結果を待ちたいと思っています。今回の事件がこれまでの旧石器研究、ひいては考古学全体に大きな打撃を与えたことは間違いありません。これを機会に、前期旧石器時代研究の方法等について、議論を深めていく必要性を痛感しています。また、考古学界の一隅に身を置く者として、このようなことがないよう、私自身も今回のことを教訓に研究にたずさわってまいりたいと存じます。」
 藤村のインタビュー記事と相前後するように昨年の10月24日、講談社より「もう、古い日本史は消してください」というきわめて刺激的なキャッチフレーズとともに『日本の歴史第01巻 縄文の生活誌』が出版された(6)。執筆者は、藤村が副所長を務める東北旧石器文化研究所による疑惑の前期旧石器の「発掘」に自らも深くかかわり、それらの公認と権威付け化に最も大きな力をふるうことになった文化庁主任文化財調査官岡村道雄である。 その岡村による本書の第一章、「「原人」たちの秋―前・中期の旧石器時代」は、「六十万年前以前から日本列島にいた「原人」」、「第二の岩宿の発見」、「旧石器発見の「神様」と、全国への広がり」などのタイトルからも明らかなように、全編、藤村や岡村らによる前期旧石器調査に対する賛美、自己称賛の言葉で埋め尽くされている。言葉は悪いが、捏造石器や遺構の紹介パンフレットを見せつけられているようであり、その中には、「なぜ、石器は埋められたのか」、「「秩父原人」の意外に高度な生活」など、捏造行為そのものを連想させるような何とも予言的なタイトルも含まれていることに思わず「ドキリ」とさせられてしまう。
 ただし、こうした類いのユニークさを除けば、物語り風の形式を取った本書の内容は日本通史の第一巻とは到底思えないほど空疎であり、劇画的でさえある。岡田康博は本書に「歴史を物語として再現」(7)という好意的な批評を加えているが、未だにその形態・存否すらまともに議論されたことのない旧石器時代の家族を物語の中心に据えることがはたして「歴史を物語として再現」することだとでも岡田や岡村らは本気で考えているのか。むしろそれは歴史を忘れた考古学による低俗なフィクションというべきであり、「科学に名を借りた現代人の作り話、神話の贋造」(8)、「考古学への過度の依存を排すべし」(9)という厳しい批判が本書を介して日本考古学全体にまで向けられていることを私たちは忘れてはならない。
 冒頭の引用文は、事件発覚直後の11月8日、『縄文の生活誌』の購読者を対象に急遽配布された、「講談社「日本の歴史」読者の皆様へ―藤村新一氏の「事件」について」と題された岡村の釈明文である。体裁は一見自己批判風を装っているが、その内実は徹頭徹尾自己保身のための責任逃れに終始している。むしろ、今回の捏造事件をまるで他人事のように総括し、考古学研究者は等しく「総懴悔」すべしと宣言しているような岡村の言葉に、たとえば薬害エイズ事件における厚生省官僚の何とも人を食った恥知らずな釈明を聞いているような錯覚に襲われるのは、はたして私だけであろうか。
 「もう、古い日本史は消してください」というキャッチフレーズとともに華々しく登場した岡村の『縄文の生活誌』は、その後、講談社によって自主回収された。いずれ改訂版が講談社によって出版されるということであるが、かれのいう「新しい日本史」が「古い日本史」によって逆に消されてしまった事実は何とも皮肉であり、喜劇としかいいようがない。私たちが本当に求めているのは、新しい歴史でも古い歴史でもない、真実の歴史である。

 
V.それぞれの自己弁護劇
 もちろん、この種の自己弁護は、世の常として岡村だけに限った問題ではない。その一人、宮城県を中心とした前〜中期旧石器調査の中心的な指導者であり、岡村の東北大学時代の恩師でもある芹沢長介が中央公論2001年1月号に書いた「波乱の考古学界を憂える」ほど、多くの研究者を驚かせた捏造批判はないだろう。この中で芹沢は「石器発掘劇場」と化した前期旧石器調査の現状を嘆いてみせる一方、「中国人研究者の見解」を紹介する形で芹沢が実は藤村らの発掘した石器にかねてより疑問を抱いていたと自らを正当化し、宮城県岩出町座散乱木遺跡の調査を「第二の岩宿の発見」と自画自賛する岡村たちこそは研究史を「歪曲」し「捏造」した張本人であると厳しく断罪している(10)。 岡村が「捏造」していたとは穏やかではないが、いわばこうした「目くそ鼻くそを笑う」類いの仁義なき内ゲバのどちらに与する気持ちも私にはない。子弟ともよくもまあ似たものだ、というのが私の率直な感想である。しかし、以前から藤村発見の前期旧石器の不自然さ、不可解さを懸念していたという芹沢が、捏造発覚の第一報を耳にしても「容易に信ずることができなかった」とは、一体、どういうことであろうか。語るに落ちたとはこのことであろう。かつて芹沢の『日本の石器時代』(11)を愛読し、考古学へのロマンをかきたてられた一人として、日本における旧石器調査の先駆者としての責任を見事に放棄した、芹沢の「老醜」ともいえる惨めな言い訳をこそ憂える。
 東北旧石器文化研究所所長の鎌田俊昭や梶原洋らの「腹立たしい」云々という発言に至っては、ただただ絶句するしかない。やはり言葉は悪いが、藤村を霊能者というより獲物を探し歩く猟犬、あるいはいつも先頭で真っ先に殺される「ソロモンの秘宝」の案内人よろしく使いまくり、「石器埋納遺構は男性器や女性器の象徴」、「今後は100万年前の遺跡発見が目標」などと無責任な高言、放言を世間にまきちらかしてきたのは、一体、どこの誰か(12)。腹立たしいのは鎌田や梶原ではなく、こちらであろう。藤村をもっとも知る立場にあり、遺跡現場では藤村の発掘をもっとも間近で見ることができる立場にありながら、石器や遺構の捏造を本当に見抜けなかったというのであれば、はっきりいって考古学者失格である。かれらが失格者の烙印を押されることも、考古学界から永久追放されることもなく安穏としていられるのは、プライオリティーの侵害や相互批判の欠如、権威づけられた定説への追随、発掘資料の私物化という日本考古学を広く覆う職業病、学界内でもっとも民主的といわれる団体を含めた日本考古学の伝統的体質の故にほかならない。
 今日、列島各地で捏造事件に関するシンポジウムが盛んである。さらに今回の事件で対外的な権威の失墜が著しい日本考古学協会でも「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」を設け、遅まきながら問題の究明にあたるといわれる。しかし、それらの当事者の多くは、はっきりいえば捏造石器を追認し、あるいは積極的にその公認化を推し進めてきた研究者で占められている。
 たとえば佐原真は、1987年に小学館より出版された『大系日本の歴史1 日本人の誕生』(13)の中で「馬場壇A遺跡の金字塔」や「座散乱木、馬場壇の発見」などの項目をわざわざ設け、藤村や岡村、東北旧石器文化研究所の前身である石器文化談話会の業績を広く紹介している。さらに「座散乱木・馬場壇への疑問」の項目では、「考古学では、層位関係だけを優先することはできない」ことを凍上現象との関連においてはっきりと認めながら、「地層の面上に石器が散布した状況で出土する宮城県下の石器の出方に疑問」を呈した小田静夫の批判に対しては、それを「所変われば土や気象条件も異なる。この論点から石器でないというのはむずかしい」という何とも矛盾にみちた非科学的な説明で退けている。
 (中略)また、現在、かれが館長を務める千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館では、捏造事件発覚後、館内に展示していた前期旧石器関係の資料をあわてて回収した事実はよく知られている。一体、佐原らは、そうした自らの負の遺産をどのように反省し、総括した上で、捏造問題の究明に取り組もうというのか。この点を明らかにすることは、歴史学にかかわる者としての最低限のモラルであろう。
 過去の傷に頬かぶりしたあいまいな発言の多さに比べ、従来の自らの立場や役割を率直に反省した発言が圧倒的に限られる日本考古学の現状と重なり合うようにうかびあがってくるのは、1969年の京都・平安博物館を舞台とした日本考古学協会秋季大会の会場で協会の現状を批判する関東・関西の諸大学の学生79名を建造物不法侵入の名のもとに警察官の手に委ね、さらにその事実そのものを学史から抹殺して少しも恥じ入ることのない日本考古学自らの「前歴」であろうか。この時、逮捕され、被告の座に座らされた学生たちが激しく批判を加えたものこそ、「考古学の現在的存立基盤の検証」を何らなしえない日本考古学のありようであり、行方であった。私たちは、その30年後の今回もまた、自らの歴史から少しも学ぼうとはしないのであろうか。



VI.マスコミや文化庁は被害者なのか
 捏造者藤村を「ゴッドハンド」の持ち主、「発掘の神様」と超能力者さながらに持ち上げ、一躍ヒーローに祭りあげた大新聞やテレビ局も今回の事件の共犯者である。その裏には、奈良県高松塚壁画、さらに古くは朝日新聞支援の岩手県花泉原人と毎日新聞支援の静岡県三ヶ日原人の調査(14)以来の古代史報道の過熱と、「死人に口なし」的によりセンセーショナルな記事を求めるマスコミの姿勢がある。毎日新聞による「日本最古の石器ねつ造」スクープの当日、上高森遺跡の地元の朝日新聞宮城版が「旧石器時代原人像見直し迫る可能性」という提灯記事を掲載するという笑い話は記憶に新しい(15)。一部の例外を除き、野心的な調査者や町起こしをもくろむ地元に便乗する形で、安易に「最古」「世紀の大発見」を連発してきた自らの負の役割に対する自戒の声がマスコミの内部からほとんど聞こえてこないことは不可解としかいいようがない。
 「あれほど専門家が周辺にいながら、なぜこれまで見過ごされてきたのか理解できません。遺物のみに目を奪われてはならぬと、自らを戒めています」(16)。捏造事件の余波を受け、急遽、前期旧石器に関する記事の削除を余儀なくされた『アサヒグラフ別冊 古代史発掘総まくり2000』掲載の編集後記ほど、今回の捏造事件に対するマスコミの主体性のなさを露呈した能天気な言葉はない。一体、藤村らの捏造石器をし新聞やテレビなどが大きくクローズアップされるようになったのは、あなたたちマスコミが「取材」し、情報を「取捨選択」した結果ではなかったのか。マスコミは、取材対象の真偽に対する自らのチェック機能をいつから喪失したというのか。マスコミ失格ともいうべき「泣き言」以外の何物でもない。 
 後述するように、青森県三内丸山遺跡の調査をめぐって朝日新聞やNHKなどが先頭に立って宣伝に努めているS・Fそのものとしかいいようのない低俗な「縄文都市論」や「縄文文明論」と、藤村が捏造した石器や石器埋納遺構との間に、どのような大きな違いもない。藤村をはじめとするヴィジュアル系考古学者は、あなたたちマスコミの存在があってはじめてその生を享受することが可能であったことを忘れないでほしい。
 加えて、今回の捏造事件に関するマスコミの報道の中には、読者に誤った理解を強いる見当外れな記事、ためにする記事が少なからず含まれていることにも注意したい。それは識者といわれている人の批評・批判の場合でも変わらない。
 いわく、旧石器時代の調査をめぐって長年ライバル関係にあった東北大学と明治大学の「遺恨試合」は、今回の捏造事件によって明治大学の勝利という形で幕を閉じることになった(17)。
いわく、捏造の容易な石器に対し、住居跡やピラミッドみたいな遺構の捏造は困難であり、そうした事態は考えにくい(18)。
いわく、「最近の縄文発掘は、捏造まであって、まだまだその社会の実態は明らかではない」(19)。
 産経新聞が紹介している、東北地方を主要な舞台とした前期旧石器調査のあり方は芹沢を頂点とする「一種の家元制度」であり、「科学ではなく宗教に近い」という「ある明大OB」の指摘そのものは誤りではない。しかし、杉原荘介と芹沢長介とが激しく対立していたふた昔前ならいざ知らず、明治大学が東北大学と並んで藤村らの前期旧石器の調査に熱い支援を送っていたことは安蒜政雄や戸沢充則らの一連の発言が示している通りである。また、形状も構造も共伴施設も不明瞭な旧石器時代の「住居」の捏造ほど容易な作業はないことは、秩父市小鹿坂出土の「秩父原人」の住居跡との関連で最初にものべている。そもそも旧石器時代の貧弱な建物跡とピラミッドを同列で論じること自体、ナンセンスとしかいいようがない。縄文発掘の捏造云々は石器捏造とのまったくの混同であり、さらにさかのぼれば、前期旧石器の発見を原人の化石骨の発見と勘違いした驚くべき論評さえ学術書に提出されていたことが知られる(20)。(中略)
 本来、こうしたトラブルを防止する立場にある文化庁や文部省も批判を免れることはできない。むしろ「新発見考古速報展」や教科書掲載問題、文化庁調査官によるマスコミを通した意識的な数々の宣伝作業をみるまでもなく、学界内部の疑問の声を無視したまま、上高森をはじめとする前期旧石器遺跡の権威付けを主導してきたのは、ほかならぬかれらである。ある意味では共同正犯といっても間違いない。「永仁の壺」の重要文化財指定事件を例に出すまでもなく、国民をミスリードしてきた責任はきわめて重い。
 にもかかわらず、この点に対する少しの反省も自らの責任追究もないまま、「発掘報告書の速やかな提出」云々とはとんだ田舎芝居・茶番であり、欺瞞も甚だしい。しかも、現在に至るまで、捏造事件の実行者から事情聴取一つ試みる姿勢さえみられないのは、どのような理由によるのであろうか。それにもまして、文化庁や文部省が数々の疑問点や批判を承知した上で、半ば強引に列島の前期旧石器の公認と権威付けを押し進めてきた本当の理由とは、一体、何であろうか。
 今回の事件は、学界・マスコミ・文化庁や文部省を含めた、まさしく構造的な問題としてある。捏造者藤村一人を断罪しても問題は何一つ解決しない。(中略)

VII.成長しない集落論
 ところで、ここで改めて日本考古学の側に視点を戻せば、今回問題となっている捏造事件ははたして旧石器時代だけの問題なのであろうか。
1長野県茅野市与助尾根遺跡を舞台にした「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」(21)
2中央広場をもつ環状集落一般を舞台にした永続的な原始的平等を特徴とする「氏族共同体論」(22)
3千葉県市川市姥山遺跡B9号住居内遺棄人骨を舞台とした「5人同居=5人同時死亡説」(23)
4鹿児島県国分市上野原遺跡第4工区を舞台にした「国内最古、最大級の定住集落論」と「南の文明論」(24)
5青森県青森市三内丸山遺跡を舞台にした「縄文都市論」と「縄文文明論」(25)
 ここに私の専門である縄文時代集落論にかかわる5つのテーマがある。いずれも集落論のそれぞれの分野を代表するテーマといえるものであるが、これらは、各テーマ全体を通した際立った共通性の存在という点でも大きな特徴をもっている。すなわち、以上のテーマはすでにその成立にかかわる資料的・論理的な矛盾・破綻が明確となり、とっくに全面撤回ないしは修正がなされていなければならないにもかかわらず、何故か未だに基本的な修正もないまま、その生を謳歌しているというきわめて不可解な事実がそれである。
 まず1の「三家族(二棟一家族)三祭式(石柱・石棒・土偶)分掌論」の唯一の根拠である与助尾根遺跡についていえば、中期後半期の前後する2時期の集落とされた本遺跡例が実は数百年の時間差をもつあわせて4時期の住居群より構成されており、前提そのものが幻影であることは以前から批判を加えている通りである(26)。 
 2の「氏族共同体論」についていえば、縄文社会が住居に付属する貯蔵施設の不均等な分布や家族を単位とする労働の増加からもうかがわれるように次第に内部的な矛盾を顕在化させ、後半段階には階層制の萌芽をも思わせるような様々な動きをみせることもよく知られている。まして、集落の形態と当該社会の構成や質がストレートに結びつくようなお気楽な関係はどこにも存在しないことは、世界各地の民族例が教えるところである(27)。
 3の「5人同居=5人同時死亡説」についていえば、フグ毒などによる集団食中毒で同時に横死したとされるB9号住居出土の5体の人骨は実はもがき苦しむように折り重なった状態で発見された南側の4体と、屈葬状態をとどめる西側の1体から構成されており、両者は、異なる時間に、異なる原因で死亡した、まったく別個のグループに分割されることが明らかになっている(28)。
 それぞれの詳しい内容については私のこれまでの批判を参照していただきたいが、以上にも明らかなように、ここに列挙したテーマは、いずれも立論の根拠や前提そのものにかかわる致命的な欠陥を有している。すでにそれは解釈の違いという次元を大きく逸脱しており、人間であればとうに臨終を宣告され、荼毘に付されていたといっても言い過ぎではない。(中略)にもかかわらず、こうした矛盾や欠陥にまったく目を閉ざした、誤れる「三家族三祭式分掌論」や「5人同居=5人同時死亡説」が十年一日のように概説書や博物館を賑わし、あるいは不勉強な「研究者」によって引用・賛美される縄文時代集落論、ひいては日本考古学の現状とは、一体、何であるのか。
 ゴッドハンド氏藤村による前期旧石器の捏造は、まさしくこのような、とうてい歴史科学とはいいがたい虚構の横行と、それを許容する覆いがたい緊張感の欠如のただ中で行われた。今回の事件が、こうした日本考古学の積年の体質に対する痛烈な警鐘であったことはあまりにも自明である。

VIII.虚構としての『縄文の生活誌』

 前出の岡村の『縄文の生活誌』は、この点でも厳しく断罪されるべき内容を含んでいる。 たとえば本書の第三章「縄文文化の成立」の項には、「鹿児島県上野原遺跡第4工区では、早期前葉の竪穴住居が合計五十二棟、炉穴十六基、焼け集石三十九基と、多くの土坑が発見された。また、桜島から噴出した軽石が竪穴住居内へ堆積した状況から見て、二本の道を中心に、十棟ほどが同時に存在した定住集落が百年から百五十年続いた遺跡であったことが判明している」という記述がある。しかし、いつ、誰が、どのような方法で、本遺跡が10軒ほどの同時存在住居からなる100年以上にわたる長期定住集落であることを証明したというのであろうか。
 詳細には不明な点が残されるが、岡村をはじめとする研究者が同時存在の根拠として取り上げる本遺跡における薩摩火山灰(P13)の分布は、10軒の住居のレンズ状の覆土の下層で確認されているようである。こうした堆積状況から同時存在云々といった問題を議論することはまったく困難であることは、いうまでもなく近年の縄文時代集落論の常識事項である。火山灰の雨水などによる二次的な混入の可能性などについても明確な分析が行われたという話は聞かれない。まして、本集落の通時間的な構造の分析も出土土器の型式的・編年的な検討も不十分なまま、100年や150年という数字を、一体、どのようにして導き出せるというのであろうか(30)。
 さらに第四章「三内丸山遺跡の生活誌」の項では、「細々と獲物を捕り、貝を拾い、木の実を集めて、竪穴住居にひっそり暮らしてきた二十人から三十人の集団があったという縄文人のイメージは、この十年で完全に塗り換えられた」として、その代表である三内丸山遺跡を「千五百年の長きにわたって続いた五百人近い人々のムラ」と紹介している。
 しかし、三内丸山を舞台とした近年の決して輝かしいとはいいがたい発掘成果は、本遺跡に人口500人から1000人にのぼるムラや「都市」が、しかも1500年という長期にわたって営まれた可能性が限りなくゼロに近いことを明示している。掘れども掘れども、発見された住居は未だに1000軒を大きく下回ったまま、一向に増加する気配をみせず、かえって分布密度は下がる一方である。しかも北東北の縄文土器の編年作業は関東などと比べてまだまだ粗く、現在100軒といわれている同時存在住居数も細かい編年が確立されれば一挙に数分の一ほどになるという指摘もある。
 「うそ・大げさ・まぎらわしい」
 検出された遺構・遺物に対する十分な検討もなされないまま、直径1mほどの木柱遺構の巨大さや、500人・1500年・神殿・神官層といったS・Fもどきの宣伝文句に幻惑された「縄文都市論」および「縄文文明論」の幻想性・虚構性が、改めて確認されるべきであろう。まさしくそれは「文化的捏造」という言葉こそがふさわしい(31)。

IX.『縄文の生活誌』と『国民の歴史』を結ぶもの
 岡村の以上のような『縄文の生活誌』との際立った相似性をうかびあがらせているのが「新しい歴史教科書をつくる会」の代表者、西尾幹二の『国民の歴史』である(32)。
 西尾は、先にも引用したように岡村の『縄文の生活誌』を「科学に名を借りた現代人の作り話、神話の贋造」と激しく批判している。また、上高森遺跡出土の捏造石器埋納遺構をジャワ原人や北京原人よりも古い約78万年前の人類の遺跡と年代をさらに10万年ほどさかのぼらせて紹介する一方、「あまりにもかけ離れた数字は、人間の歴史の意識というものとつながらない。「原人」の足跡が日本列島に刻まれていてもいなくても、正直、私の人生観にはほとんど関係はない」と、岡村が自己賛美をくり返す前期旧石器の「発見」に対して突き放すような見方を示している。
 ただし、このような相違点を超えて注目されるのは、両者に共通する過剰なまでの「豊かな縄文社会論」である。詳しい内容は省略するが、西尾の『国民の歴史』の中には、土間式の中国に対する高床式の縄文、神殿、陸稲、天水田、天文学、外洋航海術、家畜の飼育、縄文精神といった縄文の豊饒性を強調する言葉が並び、「世界最古の縄文土器文明」というフレーズに至っては、まるで岡村の『縄文の生活誌』や小山修三・岡田康博らの三内丸山礼讚の一節を読んでいるような錯覚にさえ襲われる。
 とりわけ見逃せないのは、両者がともに縄文時代を日本の歴史の原点・母胎、日本人のアイデンティティーの源とみなし、水稲農耕文化としての弥生文化の成立を日本史の一大変革期としてきた従来の常識に対する根本的な見直しを促していたことである。細かなニュアンスの違いを別にすれば、「縄文文明」を1万年にわたって民族的変動を受けなかった、「エジプト文明に並ぶ長期無変動文明」と位置付け、それを日本のアイデンティティーを保証しつづけた土台であり、「母なる母胎」であったと主張する西尾の縄文観と、縄文文化を「日本の基層文化」と位置付け、その中に「失いかけていた日本人のアイデンティティ」の原点・原型を求めようとする岡村のそれとは驚くほど酷似しており、瓜二つといっても誤りではない。
 しかし、ここで私たちがもっとも注意を払いたいのは、日本のアイデンティティーの土台・原点としての縄文時代を強調しようとするこうした試みが、過去に対する現代人の単なる「憧れ」や「帰巣本能」といった次元にとどまらないきわめて重要な問題、決して看過できない大きな陥穽をはらんでいたことである。縄文時代は未開の原始社会ではなく、「ほどなく王権の成立期を迎えるに足るだけの、文明的な成熟状態にすでに到達していた」。より具体的にいえば、そもそもわが列島には今日に至る王権・王朝の継続を希求する「国民的な意思」が連綿として地下水のように流れており、しかもその強固な国民的意思、広義の民族的意思は、実は弥生時代はおろか、それに先立つ縄文時代の少なくとも後半段階にまでさかのぼって確実に存在していた、という西尾の指摘がそれである。
 西尾論の問題点についてはすでに私の批判があり、それを参照していただきたいが、世界史に占める日本列島および民族史の一体性・継続性を高らかに謳い、返す刀で弥生式水稲農耕社会の形成にかかわる朝鮮半島や大陸の影響をことさら過小評価しようとする西尾の主張の背後に見え隠れするのは、一言でいえば、より近代的な外皮を纏った「やわらかな皇国史観」であり、「ネオ皇国史観」である(33)。しかも、歴史的な事象から「この国の今日までの歴史が示したひとつの意思」なるものを強引に導き出し、その淵源を「神武東征」のさらに数千年の昔にまでさかのぼって辿りうるとする西尾の、霊能者も顔負けの壮大な「御託宣」こそは、まさしく「科学に名を借りた現代人の作り話、神話の贋造」そのものといえるものであり(34)、また、こうした周辺文化(文明)に対する日本文化(文明)の独立性と優越性の過度の誇示を三内丸山遺跡の発掘を契機とした「縄文文明論」と「縄文都市論」のきわめてヒステリックともいうべき大合唱が背後から支えていたことに、私たちは強い危惧と懸念とを抱かざるをえないのである。
この点において、「縄文文明論」や「縄文都市論」を自己宣伝を兼ねて強力に推し進めてきたNHKや朝日新聞などのマスコミの責任もきわめて重大であることを、はたしてかれらはどれほど自覚しているのであろうか。
 中国や韓国などの近隣諸国による抗議の嵐の中、「新しい歴史教科書をつくる会」作成の中学歴史教科書の採択がすぐれて現実的な問題として登場している現在、同会代表者である西尾の『国民の歴史』と、文化庁調査官岡村の『縄文の生活誌』との間にみられる奇妙な一致が意味するものについての真剣な追求が必要であろう(35)。

X.捏造の社会史
 『正論』2001年2月号に掲載された原田実の「あまりにも罪深い“神の汚れた手”」はさらなる捏造の抑止を大義名分に文化財捏造への「法的制裁」の必要性を指摘し、とりわけ「将来起こりうる現代史関係の史料捏造」に対する処罰の法制化は国益の問題である、とまでいいきっている(36)。原田は「現代史関係の史料捏造」の1例として南京大虐殺問題を取り上げている。形こそ石器捏造事件を断罪するという体裁をとっているものの、原田のいう「法的制裁」の真のターゲットが「新しい歴史教科書をつくる会」が「自虐史観」と呼ぶものの全否定、権力による公然たる封殺にあったことは間違いない。
 しかし、これまでにも批判をくり返してきたように、「新しい歴史教科書をつくる会」代表者である西尾らが主張する「縄文文明論」や「エジプト文明に並ぶ長期無変動文明論」こそは、ヴィジュアル系考古学者とその周辺のエセ文化人の創作になる虚構、文化的捏造にほかならなかったことはすでに明らかな通りである。(中略)
 先の原田は、現代の偽書の代表例として知られる『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)と今回の石器捏造事件との共通性にも触れ、「共に東北人のナショナリズムを刺激し、さらに町興し・村興しにも貢献することで東北人の期待を担ってきた」という解説を試みている。しかし、『東日流外三郡誌』の中には、遮光器土偶をモデルにした「アラハバキ神」、縄文人を思わせる「アソベ族」・「ツボケ族」などのS・Fそのものとしかいいようのない荒唐無稽な記述外にも、「歴代天皇の治世は数千億年」、「神武天皇は百五代目」といった記述があることはよく知られている。さらに近年では、これに三内丸山遺跡を描いた超古代風景画なるものさえ加わったと聞く(37)。程度こそ違え、まさにここにみられるのは西尾の『国民の歴史』ならぬ『王朝の歴史』であり、旧石器人「クグ」や縄文人「アカメ」が登場する岡村の『縄文の生活誌』の世界であったことは論を待たない。
 新たな世紀を迎えた日本考古学が、石器捏造事件の出口を求めて、さらに混迷の度合いを深めつつあるようにみえる今日、私は、「『国民の歴史』と『縄文の生活誌』こそは20世紀最大の偽書である」と呼ばれる日がいずれ来るであろうことを予言した上で、本稿を閉じたいと思う。

 付記
 本稿執筆中の3月はじめ、元別府大学教授賀川光夫氏の自殺を知らせる衝撃的な報道が飛び込んできた。残された遺書によれば、賀川氏が1962年に調査団長を務められた大分県本匠村聖嶽洞窟発見の後期旧石器と旧石器時代人骨「聖嶽人」をめぐる捏造疑惑報道に対する抗議の自殺であったという。問題の行方がなお混沌としている現在、軽率な発言は差し控えたいが、きわめて不可解なのは、捏造疑惑をスクープした『週刊文春』2001年1月25日号にも登場する国立歴史民俗博物館考古研究部長春成秀爾氏の姿勢である。春成氏は同誌の中で「非常に不自然」「どうにもおかしい」「位置づけに苦慮している」「手に負えない」「困ったものだ」など、聖嶽人や旧石器の捏造を示唆する言葉を連発しているが、春成氏は自らも1999年に行われた「聖嶽洞窟発掘調査団」の副団長者を務められている。文部省科学研究費を使用した『日本および日本文化の起源に関する学際的研究』考古学班の公式の調査報告書も刊行されない段階に、調査団の責任者の一人がマスコミのスクープ記事という形で捏造疑惑問題なるものをリークすることが、はたして正しい行為といえるのかどうか。まして、ゴッドハンド氏による捏造石器のPR役を国立歴史民俗博物館が積極的に担ってきたことはこれまでにも指摘してきた通りである。しかも、今回の捏造事件は、同じく春成氏が「明石原人」検証を目的として調査を行った兵庫県明石市西八木より発掘され、「大陸の中期旧石器時代併行期に、明石付近に人類が生息していた」ことを裏付けたとされる「人工の板」なるものの全面的な見直しをも強く促すものであったことは、誰の目にも明らかなところである。ともあれ、芹沢長介氏とはきわめて対照的な身の処し方を選ばれることになった賀川光夫氏のご冥福を心からお祈りする次第である。
「考古学者たちが口にしたくてもできない「第二の神の手」が大分「聖嶽人」周辺にいる!?」『週刊文春』2001年1月25日号 
 

1)佐々木藤雄 2000『私が掘った東京の考古遺跡―あなたの街から古代のメッセージが聞こえる』ノンブック 祥伝社
2)『毎日新聞』2000年11月5日付全国版「日本最古の石器発掘ねつ造」
3)ノンブックにおける前期旧石器問題の執筆にあたっては、山村貴輝氏をはじめとして、安斎正人、相馬信吉、辻本崇夫、橋本真紀夫、山本典幸の諸氏より有意義なご教示をいただいたことを記しておきたい。
4)藤村新一 2000「私には50万年前の地形が見える」『現代』11月号
5)『週刊朝日』2000年12月15日号「吉村作治教授が今は怪しむ宜保愛子エジプトでの霊視」 率直にいって吉村も宜保の同類でしかあるまい。
6)岡村道雄 2000『日本の歴史01 縄文の生活誌』講談社
7)岡田康博「岡村道雄著『縄文の生活誌』を読む」週間読書人2000年11月17日号
8)西尾幹二 2001「「歴史」と「科学」の相克―「国民の歴史」に降りかかる火の粉を払う」『諸君』1月号
9)藤岡信勝 2000「考古学への過度の依存を排すべし」『産経新聞』11月16日付全国版
10)芹沢長介 2001「波乱の考古学界を憂える」『中央公論』1月号
11)芹沢長介 1960『石器時代の日本』築地書館
12)梶原洋 2001「特集 前期旧石器文化の諸問題 内陸および北アジア」『季刊考古学』74ほか
13)佐原真 1987『大系日本の歴史1 日本人の誕生』小学館
14)林寛人 2001「高森原人「石器捏造報道」を嗤う―原人ブームを煽る新聞に捏造を嗤う資格はない」『文芸春秋』1月号
15)『朝日新聞』2000年11月5日付宮城版「旧石器時代原人像見直し迫る可能性」
16)『アサヒグラフ別冊』2000年12月30日号「古代史発掘総まくり2000」
17)旧石器発掘ねつ造取材班 2000「続 欺かれた古代ロマン5 遺恨試合」『産経新聞』11月28日号
18)井沢元彦 2001「日本の歴史学界の古い体質が古代遺跡偽造発掘事件を生んだ」『SAPIO』1月24日・2月7日号
19)山下龍二 2001「人気歴史学者の陥穽 「網野史学」とは何か」『正論』3月号
20)田村貞雄 1996『新編日本史を見直す1地域と文化』青木書店
21)水野正好 1963「縄文式文化期における集落構造と宗教構造」『日本考古学協会第29  回総会研究発表要旨』ほか なお、与助尾根遺跡を「同時期に二棟一組の竪穴住居跡が三組ずつ、東西に二グループ計一二棟存在したと考えられる」と紹介した何ともでたらめきわまりない虚構は、「権力と国家と戦争」と題した都出比呂志らによる最近の座談会の中にも認められる。今回の石器捏造事件に対する関西を中心とした西日本研究者の全般的な無関心も示しているように、かれらは縄文時代や旧石器時代を弥生時代や古墳時代の露払い役ぐらいにしかみていないらしい。都出比呂志・田中琢編 1998『古代史の論点4 権力と国家と戦争』小学館
22)勅使河原彰 1989「縄文時代集落をめぐる問題」『歴史評論』466ほか
23)春成秀爾 1981「縄文時代の複婚制について」『考古学雑誌』67―2ほか
24)新東晃一 1997「南九州に優位で特異な文化」『鹿児島の縄文文化』 勅使河原彰 1998『縄文文化』新日本新書 根田信隆 1999「関東から見た南と北の縄文時代集落論定住の始まり」『利根川』20ほか ここにあげた論文だけでも、「同時存在住居13軒」、「同時期10軒前後の集落がほぼ3時期にわたって数百年間継続」といった類の、まったく根拠のない無責任な数字が多数列記されていることに驚かされてしまう。
25)梅原猛・安田喜憲編 1995『縄文文明の発見』PHP研究所ほか
26)佐々木藤雄 1994、1996「水野集落論と弥生時代集落論―侵蝕される縄文時代集落論」『異貌』14、15ほか
27)佐々木藤雄 1993「和島集落論と考古学の新しい流れ―漂流する縄文時代集落論」『異貌』13ほか
28)佐々木藤雄 1986「縄文時代の家族構成とその性格―姥山遺跡B9号住居址内遺棄人骨資料の再評価を中心として」『異貌』12ほか
29)小山修三・岡田康博 2000『縄文時代の商人たち』洋泉社
30)佐々木藤雄 1998、1999「北の文明・南の文明―虚構の中の縄文時代集落論」異貌16、17ほか
31)佐々木藤雄 1998、1999「北の文明・南の文明―虚構の中の縄文時代集落論」異貌16、17ほか
32)西尾幹二 1999『国民の歴史』新しい歴史教科書をつくる会編 産経新聞社・扶桑社
33)佐々木藤雄 2000「縄文的社会像の再構成―二つの「新しい縄文観」のはざまで」『異貌』18
34)「最近の縄文発掘は、捏造まであって、まだまだその社会の実態は明らかではない」という迷解説を行った山下龍二は、歴史学者網野善彦の『「日本」とは何か』を批判した文章の中で、「こまかしい過去の歴史研究が深まると、日本人の進路が自然に浮き出てくるとでもいうのであろうか。同じ歴史的事実でも、その解釈の仕方によっては、右にも左にもなるものである。皇国史観も進歩史観も唯物史観もみな否定した網野氏は、やはり原始共同体を自由平等の理想世界と見、縄文時代、縄文文化に夢を託し、それを新しい“神話”として、定着させようと努力しているように、私には思われてならない」とのべている。網野を弁護するつもりは毛頭ないが、山下は、かれの網野批判の内容がそっくりそのまま西尾の『国民の歴史』にもあてはまる事実にどれほど気づいているのであろうか。まさしく「同じ歴史的事実でも、その解釈の仕方によっては、右にも左にもなる」のである。網野善彦 2000『日本の歴史00 「日本」とは何か』講談社 山下龍二 2001「人気歴史者の陥穽 「網野史学」とは何か」『正論』3月号 
35)「徹底批判」と銘打った石部正志の『国民の歴史』批判は、考古学研究者の論理性・思弁性の限界を露呈するように、悲しいほどピント外れの「批判」に終始している。「縄文文化を世界最古の土器文化と称するのは誤れるお国自慢に過ぎないが、これを土器文明などというのは、文化と文明というまったく異なった社会科学の概念の区別も知らない西尾氏の無知を露呈している。」「(縄文時代の集落は―筆者註)建物はすべて中央に広場をおき、それを囲んで配置されていることから、日常経営の基礎単位は家族ではなく、複数の家族の集合体である血縁的な氏族共同体であったと考えられる。」「三内丸山遺跡はこうした(部族的なまとまりの核心をなす―筆者註)拠点集落の代表例の一つ・・・ 約一五〇〇年間にわたって継続的に繁栄をきわめた・・・ 。」石部がここでのべている縄文観の多くは、すでに明らかなように死にかけつつある縄文観、文化的捏造としかいいようのない縄文観で占められている。こうした虚構の縄文観をもとにいくら考古学的な「批判」を試みたところで日本考古学の停滞性・作為性を満天下にPRするだけであり、「約一五〇〇年間にわたって継続的に繁栄」云々という説明に至っては、逆に西尾の主張を補強する役割をはたすだけでしかない。まして、いわば確信犯的に「縄文文明論」をふりまく西尾に文化と文明の「区別も知らない西尾氏の無知」といった批判を加えることに、一体、どのような現実的意味があるというのか。『国民の歴史』にとっての「縄文文明論」や三内丸山遺跡のもつ政治的あるいは現代史的意味合いの大きさを少しも理解できない、まったくのタコツボ的発言といえる。列島に原人がいてもいなくても「私の人生観にはほとんど関係はない」という西尾の発言を人類史に対する「ゆるしがたい暴言」と憤慨してみせる石部の「批判」はその最たるものであり、捏造の可能性がきわめて高い秩父市小鹿坂遺跡の住居跡をわざわざ引き合いに出して「今回の発見は、原人段階の人類がすでにかなり高度の技術、つまり文化を保有していたことを傍証した点が重要なのである」と訓戒をたれるあたりは、もはや喜劇としかいいようがない。日本考古学の有効性に疑問符を付ける同様の問題点は、残念ながら最近の広瀬和雄による『国民の歴史』批判の中にもはっきりと認められる。石部正志 2000「『国民の歴史』の誤れる縄文観」『徹底批判『国民の歴史』』大月書店  広瀬和雄 2000「日本考古学は有効か!―西尾幹二『国民の歴史』によせて」『考古学研究』47―3
36)原田実 2001「あまりにも罪深い“神の汚れた手”」『正論』2月号
37)長山靖生 2001「歴史はいつも偽造された「偽書」の日本史」『週刊新潮』1月4・11日号

参考文献
小田静夫 2001「日本旧石器研究の封印された論争」『世界』1月号
斎藤忠・馬場悠男・織笠昭・山口敏・山中一郎・鈴木忠司・松藤和人・甘粕健・大塚初重 2001「旧石器遺跡捏造事件へのコメント」『季刊考古学』74
立花隆 2000「私の読書日記―旧石器捏造事件 カエル 債務」『週刊文春』12月14日号
秩父市・(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団 2000『秩父市制施行50周年記念前期旧石器 フォーラム―秩父原人 その生活』
林謙作 2001「所謂「捏造事件」をめぐって―型式学的考察」『季刊考古学』74
本誌編集部 2001「藤村新一氏「石器発掘捏造事件」を考える」『現代』1月号


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