平成9年3月に国の史跡に指定された三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、今では教科書にも登場するくらい有名になりました。「大きい・長い・多い」というキャッチフレーズを記憶している方もいらっしゃると思います。「大きい」は遺跡が巨大(370000平方メートルー東京ドーム約7個分)であること、「長い」は約1500年間続いていたこと、「多い」は土器などがたくさん出ていること(50000平方メートルを発掘調査し、約40000箱の遺物が出ています)を示しています。さらに続けて次のようにのべています。
ー今から約5500年前、ここに集落が造られた時点での住居数は40〜50棟(とう)程度(ていど)、1棟に4、5人が住んでいたとすれば、人口は200人前後だったようだ。その後、5000年ほど前から拡大しはじめ、4500年ほど前に最盛期(さいせいき)を迎え、住居数約100棟、人口500人くらいの集落になっていた可能性が高い。その後集落は小型化し、拡散、分散していったようだ。ー
この言葉をそのまま信じると、三内丸山遺跡はとてつもなく大きく、1500年という「四大文明」もとうていおよばない長きにわたって続き、その人口は一番多いときは500人位にもなったことになります。これはそれまでの食料をもとめて移動しながらの生活をしていたという、縄文人のイメージをまったく変えてしまう遺跡になります。ある人が「教科書をぬりかえてしまう遺跡だ」と、いっているのはこのことをさします。みなさんが今、手元にお持ちの教科書にはどのように書いてありますか?確かめてみて下さい。
はたして、このすべてが正しいのでしょうか?このホームページを作っているおじさんは、残念ながら、この意見には反対です。
次に、その理由を説明します。まず、「大きい」ですが、これはこれまで行われた遺跡の発掘調査のほとんどは、道路などの細長い部分しか掘ったことがありませんでした。三内丸山遺跡のように野球場を作るために50000平方メートルもの巨大面積を発掘調査した例があまりありませんでした。このような理由から三内丸山遺跡は、大きく見えてしまうのです。青森県内に限っても、まだ発掘調査は行われていませんが、面積の大きい遺跡はあります。
「長い」は、遺跡から出てきたたくさんの土器の文様が連続していて、始まりから終わりまで年数を数えてみると、およそ1500年にもなるということから来ている数字です。少し専門的になりますが、土器が連続していることは、1500年間、毎日、三内丸山遺跡に人が住んでいたことの証明にならないことは、考古学の常識となっています。また、「じょうもん人とトイレ」のところでも話をしましたが、500人が毎日だすウンコの量たるや、それこそ山盛りにもなるような量でしょう。これが1500年間も続けられるはずがありません。おそらくは、途中、何回も遺跡に人が住まなくなった時期があったとおもいます。
「多い」はたくさんの土器や石器が出たことをいっていますが、たしかに全体の量を比べてみると、三内丸山遺跡からは、段ボール箱でおよそ40000箱という、すごい量が出ています。しかし、これも50000平方メートルという、とてつもない面積を発掘調査したからなのです。1平方メートル当たりに換算(かんざん)してみると、にたような量を出している遺跡がけっこう見つかります。密度(みつど)が高くても、三内丸山遺跡ほどの面積をあけないと、結果として少ない量しか出ないことになります。全体量だけの比較は、けっきょく、数字のマジックです。
さて、このように見てくると、三内丸山遺跡だけが特別な遺跡でないことがおわかりいただけたと思います。世の中にはたくさんの「マジック」があります。それをそのまま、信じてはいけません。まずは疑問の目で見て、自分の頭できちんと考え、納得したことを信じるようにしてみてはいかがでしょうか?