垂柳遺跡水田跡発見秘話

 昭和50年代の中頃、青森県田舎館村垂柳遺跡の発掘調査が行われ、それまでの常識を覆す発見がなされました。弥生時代の水田跡の発見です。昭和30年代前半に当時の東北大学伊東信雄教授によって弥生時代の焼米などが発見され、津軽平野での弥生時代の稲作を主張されてから、その実証までは20年以上の年月を必要としました。

 また、先の昭和50年代中頃の弥生時代水田跡発見にも、それに至るまでの人間模様がありました。今回は当時、直接試掘調査に携わられた成田誠治氏にエピソードを17年間の時空を越えて綴っていただきました。これまであまり語られることのなかったお話が随所に見られます。ご多忙中のところ、快く引き受けていただきまして、、厚くお礼申し上げます。


                成田誠治氏                    

 埋蔵文化財の発掘調査をしていると、時として、その地域で初めてという発見がある。青森県で遺跡の発掘調査が多くなったのは1973年(昭和48年)からである。この年は青森県教育委員会の事務局に文化課ができ、専門職が配置された年である。この頃、青森県の開発はむつ小川原開発、東北縦貫自動車道(青森〜碇ヶ関)の着工が間近に迫っていたときで、その範囲内の試掘調査や発掘調査が急務とされていた時期である。東北縦貫自動車道は津軽平野の東端に臨む丘陵地の縁辺部を通る予定で、その予定路線内を発掘調査したところ、平安時代の集落が次々と現れた。一方、むつ小川原開発地域の六ヶ所村内でも平安時代の遺跡が試掘調査によって確認された。また、1977年(昭和52年)のあすなろ国体に向け県総合運動公園予定地も発掘調査されたが、ここも平安時代の集落跡だった。従って、1973年以降それまで縄文時代の遺跡に目が注がれていた青森県であったが、必然的に平安時代の集落についての知識や土師器・須恵器についての知識が必要とされることになった。

 地域に限らず、平安時代の遺跡からは、鉄製の鍬先や鎌などの農具が出土したり、平野部で焼米や溝が発見されたりすることもあり、この時代には現在のように水田稲作が行われていただろうと推定された。このような水田稲作はいつ頃まで古くなるのかということが1980年代の関心事であった。

 東北縦貫自動車道黒石インターから弘前へ直通の道路建設の計画が進められていた。国道102号線のバイパス道の建設である。これにはどうしても、かつて焼米が出土している弥生時代の垂柳遺跡周辺を通さなければならなかった。そこで、1958年(昭和33年)に、東北大学伊東信雄氏が発掘調査した部分を避けて、それより50mほど南側が予定路線となった。しかし、その場所も遺跡の範囲内の可能性もあるため、1981年(昭和56年)10月〜11月にかけて、青森県文化課が路線内の試掘調査をすることとなった。

 私はそのころ、文化課主査として、分布調査・試掘調査・短期間の発掘調査などを担当していたために、垂柳遺跡試掘調査の担当となった。調査方針について考えていた年度のはじめ頃、奈良国立文化財研究所考古第一調査室長の工楽善通氏から電話があった。電話の内容は「東北地方における古代稲作を探る」というテーマで人文・自然科学の総合的研究をしているので、調査の際にはいろいろな科学的分析の試料を採取させてほしいということであった。

 その分析には花粉分析や火山灰分析、水田雑草の分析などの外に、それまで聞いたことのない分析があった。それはプラント・オパール分析で、宮崎大学の藤原宏志助教授が遺跡から検出するために行っているとのことであった。工楽氏からその分析方法を解説した資料が送られて初めて知り、埋蔵文化財班長とも相談して、すべての分析を受け入れることとした。プラントオ・パールとは、イネ科植物の葉身に含まれているガラス質のケイ酸体で、土中に何年埋もれていても残存しているというものである。そしてその形状は、種類によって一定であるという。例えば、イネはある角度から見るとイチョウの葉のような形をしている。

 田舎館村で垂柳遺跡の発掘調査が行われていた8月4日、研究グループの人たちがさっそく層位ごとに土壌サンプルを採取された。顕微鏡をのぞいて見たらイチョウの葉のような形をしたものがいっぱいあった。しかし、別な形をしたものもイネのものだと教えられ、とうてい素人には判別できないことを知った。藤原助教授によると、8月には田舎館村が調査した場所では、イネのプラントオ・パールが多すぎて 、水田というよりも調整する場であろうということであった。そして、このような場があるということは、この周辺に必ず水田跡があるだろうと断定された。この場所より少し低地になっているところが秋に試掘調査を行う地域なので、トレンチを設定していろいろな地点で土壌サンプルをしたいとのことであった。村の調査でプラント・オパールの分析をした8月4日、東北大学の伊東信雄教授も来られて、昭和33年の調査した時のスライドを映して見せてくれた。土器包含層は、発掘現場でも説明してくれたのでその色や感触がわかったが、発掘調査時のスライドには感激し、非常に印象的で記憶に残った。

 秋の県教育庁文化課の試掘調査は1981年(昭和56年)10月12日から開始された。調査対象区域は、幅40m、長さ750mのバイパス路線内である。調査方法は、全域にトレンチを設定し、トレンチの一部分には土層観察と土壌サンプル採取のため無遺物層まで掘り下げるところを予め設定した。

 地質担当の調査員の指導のもと、基本層序が確定した段階で藤原助教授に連絡した。さっそく藤原助教授が プラント・オパール分析のため土壌サンプルを採取された。その結果、夏にプラント・オパールを確認した場所のちょうど南側の地点の第4層と第6層が水田跡としてちょうど良い値になっているとのご教示をいただいた。そこで、その周辺を拡張した。第4層でも畔のような高まりを確認したが、途中でとぎれ明確に確認できなかった。そのうち、藤原助教授の滞在期日がなくなり帰られた。

 その後、同地点ををさらに拡張する一方、発掘区域全域にトレンチを入れ、遺物・遺構の有無を調べ範囲の確認を急いだ。溝や土坑のようなものなどが検出されたり、第2層からは中世陶磁器や土師器が出土したり、第7層から縄文土器が出土したり、遺跡の範囲はかなり広がりそうになってきた。

 水田跡

 一方、拡張区域では、第4層から土師器や木くずなどが出土していたので、平安期の水田跡が検出されるのではないかと胸をときめかせたが、溝のようなものは確認できたが、どうしても畔は検出できなかった。そのうち、10月も末に近づいたので、思い切って12m×14mの範囲で第4層を掘り下げることとした。11月初めには、第5層に達し、11月3日にその層を掘り下げることとした。第5層は灰白色の火山灰質の土層であった。休日にも拘わらず、第5層を少しずつ掘り下げた結果、想像していたよりも整然とした畔が見えてきた。

 大畔・小畔・水路とだんだんはっきりしてくるにつけて、だんだん実感が湧いてくる。これが本当に弥生水田か、と自問自答しているうちに、作業員からこの黒く見えるものは何ですかと聞かれ、我にかえり、思わず「弥生時代の水田の跡だ」と言ってしまった。それまで黙々と指示に従っていた作業員たちの間から一斉に歓声が上がった。約2000年前の人たちが耕していた水田跡が眼前に現れた一瞬であった。


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