ウェルカムボード 札幌 家 「−あおもり街の記憶 1 明治時代−」

青森県立郷土館 連携展「−あおもり街の記憶 1 明治時代−」

ポスター

期 間:平成20年9月20日〜11月30日 終了しました。

会 場:青森県観光物産館アスパム2階
青森市安方一丁目1番40号 (TEL)017-735-5311

趣 旨:明治20〜30年代を中心とした時期に、西洋の銅版画技法と絵地図の影響により、日本全国の主要都市で制作された実地明細地図。この実地明細地図を展示・紹介することによって、当時の青森市の公共施設や繁華街の変遷などをたどってみる。

1:青森実地明細絵図とは

 青森実地明細絵図(あおもりじっちめいさいえず)は、明治25年(1992年)発行です。編著人は、川瀬善一という岐阜県出身で函館に住んでいた人です。同氏は函館・青森・弘前・八戸の各地の実地明細絵図を編集しました。青森市は、当時青森町〔明治31年(1898年)市制施行〕で、前年に東北本線が開通し、これから発展期を迎えようとした時代でした。

  特徴は、大町(おおまち)の商家や浜町(はままち)の旅館・料理店などが大きくとりあげていることです。青森・函館間の定期船は明治6年(1873年)に始まり、乗船場は浜町の旧棧橋(きゆうさんばし)を利用していたため、大町・浜町が一番の繁華街でした。また、柳原遊郭(やなぎはらゆうかく)が詳細な絵図と地図で紹介されているのも特色です。本絵図は1枚25銭で、青森の書店・小間物店で販売されました。

 当時の青森県庁は、北側に玄関があり、そこにつながる県庁通りは、県庁玄関で行き止まりとなっていました。そして、県庁通りを北上した海岸(現 アスパム東脇)に新棧橋が建設〔明治41年(1908年)〕され、青森駅と並び当時の青森の玄関口となったのです。つまり明治時代、青森の街は、青森湾に門戸を広げた湊町だったのです。一方、県庁は青森町の南限で、その南側にできる現在の国道は、当時つながった通りではありませんでした。また鉄道の線路は、さらに南方の田園の中を走り、現在の旧線路通りにありました。

 その後東北本線は、市街地の南方拡大に伴って、大正15年(1926年)と昭和43年(1968年)の2度南方に移転しました。昭和43年の移転で、浦町(うらまち)・浪打(なみうち)の両駅が廃止され、東青森駅が新設されました。このときの線路跡は、平和公園に代表される緑地帯として、現在でもほとんどをたどることができます。

絵図

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各建物をGoogle Map(暫定版)で

青森実地明細絵図建物一覧表

 

2:公共施設

1.青森県庁
 明治4年(1871年)、弘前から弘前藩お仮屋跡に移転開庁し、明治15年(1882年)には新庁舎が建てられました。その後改築されましたが、戦災までは昔の姿を保ち、周りには旧藩時代の堀がありました。現在の県庁通りを山手に行った突き当たりの北側に正門があり、県庁通りは県庁で行き止まりになっていました。

2.青森町役場・青森警察署
 青森町役場は、青森警察署とともに善知鳥神社境内にありました。青森警察署は、明治7年(1874年)第一警察署として設置され、明治10年(1877年)青森警察署と改称されました。

3.青森停車場
 青森駅〔明治24年(1891年)開業、当時安方駅〕は当時、現在の新町通よりも一本海手の安方にあり、青函連絡船の乗船場は旧浜町棧橋にありました。

4.公立青森病院
 現在の神病院(神外科胃腸科)の場所にあった青森病院を、公立にしました。その後県立となり、現日本銀行付近、現青い森公園付近を経て現在地に移転しています。

5.青森裁判所
 当時すでに、現在とほぼ同じ場所にありました。

6.第五十九銀行(現青森銀行)本店
 当時は青森支店。現在の建物は昭和6年に建てられたものです。現在は青森県立郷土館の大ホールとして使用され特別展・企画展の会場として使用されています。

公共施設地図

 

3:特色ある商家・現代につながる建物

1.「牛肉」の旗を掲げた「鳥獣肉及牛乳卸小賣所」
 当時すでに、肉屋、牛乳店、和洋小間物店、和洋書籍文具店、洋酒等の、新しく売られるようになった商品や、舶来品を扱う店が多かったことが店名からうかがえます。

2.4店舗が一つ屋根の下に入った「共同商館」
 店構えからすると、ガス灯が灯されているなど、市場というより現代のショッピングモール的な建物です。商品も、和洋小間物・呉服・塗物等の買い回り品でした。

3.「鉄類造味噌米町○さ渡邊佐助」
 マルサ味噌を製造販売していた丸屋醸造株式会社は、弘化5年(1848年)創業の県内で最も歴史のある蔵でしたが、2004年ワダカン株式会社に吸収合併されました。マルサ味噌は、現在も青森市八幡林字品川の工場で製産されています。
  
4.「渡辺時計商店」
 現在、昭和通りに店を構える、青森市で一番古い老舗の時計店です。創業は明治16年(1883年)。現在の経営者は五代目です。看板は、絵図中唯一、当時西洋に憧れのあった創業者が、あえて左から右に書いたそうです。

5.「呉服太物商大町金木屋支店 カネ長 村林嘉左ヱ門 」
 かつて新町に「カネ長武田」というデパートがありましたが、その前身で、安政年間(1850年代)に創立しました。「カネ長武田」?「ダックシティ・カネ長武田」?「青森ビブレ」と変遷し、現在は「さくら野百貨店」となっています。青森店の看板の上部にはビブレ時代から「カネ長武田」のロゴが付けられています。

6.「五十九銀行国立銀行」
 第五十九国立銀行青森支店が、明治12年(1879年)当地に設立しました。当時大町界隈(かいわい)には他に、日本銀行・安田銀行・勧業銀行等たくさんの銀行がありました。第五十九銀行青森支店は、青森銀行本店をへて、現在は、県立郷土館の大ホール〔昭和6年(1931年)建設〕となり、企画展・特別展の展示室となっています。

7.武内製飴所
 青森実地明細絵図には載っていませんが、大町通り角(現本町五丁目)に、安政5年(1858年)創業以来ありますので、今年で150年の歴史を誇る老舗(しにせ)の飴屋(あめや)さんです。

8.奥村商店(食品加工)
 青森実地明細絵図には載っていませんが、大町(現本町五丁目)にある明治11年(1878年)創業で、漬物屋さんとして古くから知られた店です。創業時は豆腐店、次に八百屋、現在は漬物も含めた食品加工をしています。

9.高橋かまぼこ店
 青森実地明細絵図には載っていませんが、大町(現本町五丁目)にある明治36年(1903年)創業の、青森で一番老舗のかまぼこ屋さんです。創業当初は、現在郷土館の東向かいにある、中小企業会館の場所にありました。

10.白利(しらり)商店(鮮魚店)
 青森実地明細絵図には載っていませんし、創業年もはっきりしませんが、江戸時代末期から3年前まで続いた、大町(現本町五丁目)にある鮮魚店です。戦前は、「志(し)ら利(り)」として市内で一番の仕出屋さんでもありました。



商家等地図

 

4:屋根の形状について

 現在、関東以西で一般的な瓦(かわら)ぶき屋根は、青森県ではほとんど見られません。その理由は、豪雪・寒冷地では、凍害によって毎年のように瓦の補修・ふき替えが必要になるためです。

 しかし、明治25年(1892年)発行の青森実地明細絵図を見ると、蔵の大半が瓦屋根であることが分かります。その鬼瓦(おにがわら)には、※1)殺生釘(せっしょうくぎ)が付けられたものが10棟確認できます。殺生釘は、過去に存在したことが確認されたものも含め、全国でも100例足らずといわれます。その分布の範囲は、大脇潔(「殺生釘補遺」2008年)によると、「西は京都・奈良から北海道までと東に偏在することも明らかになった。一方、大阪以西では全く見かけず、※2)鳥衾付(とりぶすまつき)鬼瓦の独り舞台である。」とし、時期は、「江戸時代から明治・大正・昭和にかけて流行した」としています。

  青森県旧三市の実地明細絵図によると、青森町の10例、弘前市の2例、八戸市の4例の計16例が明治時代にあったと確認できます。青森の10例の分布は、当時のメーンストリートの大町通りに3例、その一本山手の米町通りに6例で、残り1例は場所が確認できませんでした。この10例は、当時流行の殺生釘を真っ先に取り入れた店舗だったでしょうし、屋根の棟はしの日輪のような殺生釘を見上げた人達は、その店の財力や勢いを感じたことでしょう。また寒冷地にもかかわらず、あえて蔵を瓦屋根にした理由は、当時大火が多かったからで、類焼防止のためとみられます。それ以外の建物は柾葺(まさぶ)きなど木製が多く、やはり類焼防止のため屋根の上に水桶が置かれた家屋も多く見られます。

※1)殺生釘(せっしょうくぎ)
  殺生釘とは鬼瓦・鬼板の上に、十本弱(7〜10本程度)の釘状の金属が放射状につけられたもので、魔除けや装飾的な目的のため、鳥衾(とりぶすま)が変化したものとみられますが、諸説あり詳細は不明です。

※2)鳥衾付(とりぶすまつき)
 鳥衾とは鬼瓦・鬼板の上部が、円筒状に長く突き出し、反ったもので宗教的または 装飾的な目的とみられま すが、詳細は不明です。

殺生釘付建物

 

5:繁華街の変遷

 当時〔明治25年(1892年)〕一番の繁華街は、大町(現本町二丁目、県立郷土館付近)であり、銀行・会社・大商店で占められていました。

 その理由は、青森駅〔明治24年(1891年)開業〕は当時、現在の新町よりも一本海手の安方にあり、函館への定期船(明治41年以降は「青函連絡船」となります)の乗船場は旧浜町棧橋にありましたので、北海道へ渡る旅客や貨物は安方で降ろされ、人力車か徒歩で浜町まで移動しなければならず、その通過点の大町・浜町(大町の海手隣り)が繁栄したのです。ところが、明治31年(1898年)函館への定期船の棧橋は、青森駅隣接地に移転しました。また青森駅も、明治39年(1906年)鉄道構内拡張のため、一本山手の新町へ移転しました。そのため大町・浜町はさびれ、代わって新町がにぎわうようになりました。

 その後青森市は、明治43年(1910年)、空前の大火となり、市の中枢部のほとんどが焼き尽くされました。焼失家屋は7,519軒、焼死者は26名でした。その後、昭和の戦災でも市街地のほとんどが焼失し、青森の街は二度、全く新しい街に生まれ変わったといわれています。

今と昔の比較図

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6:柳原遊郭(やなぎはらゆうかく)

 青森の遊郭は最初、元禄8年(1695年)、大町(おおまち)通りの東に隣接した塩町(しおまち)(現在の青柳(あおやぎ))につくられましたが、明治22年(1889年)の火災で焼失し、堤川の対岸(東側)の柳原(現在の港町(みなとまち))に移転しました。規模は、当時すでに東北でも一、二といわれました。

 川向こうからも目立つようにするためか、木造三階建てや、四階建ての上に望楼風(ぼうろうふう)の部屋を持つ貸座敷(かしざしき)(富士見楼)もありました。また店先には、当時普及したてのガス灯が灯(とも)され、夜になれば華やかな賑(にぎ)わいの様子が、対岸からも見られました。女郎衆(じよろうしゆう)は200名。一・二等貸座敷は12〜13軒。三等貸座敷は30軒くらいありましたが、明治43年(1910年)の大火で焼失し、東北本線南側の旭町森紅園(しんこうえん)へ移転しました。

 しかし旭町への移転は、繁盛しなくなるという見通しをつけた、三升楼・富士見楼などの一等貸座敷は、函館市の大門(だいもん)遊郭(現在の東雲町(しののめちよう))へ移転しましたので、規模は縮小しました。

柳原遊郭地図

 

会場の様子
会場の様子

※このお知らせは、青森県立郷土館より資料提供を受けて作成しました。記して感謝申し上げます。


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